趣味Web 小説 2008-05-28

「いのちの奪い方」の指導法

動物を殺して捌く様子を見せるのは、なかなか難しい。個人的には、教育効果の観点からは、題材はむしろ植物の方がいいと思っています。

その理由は、まず、「気持ち悪い」といったレベルの思考停止が生じにくい。次に、スレた子どもでも「そこにも命があった」ことを忘れていることが多く、興味を持ちやすい。そして、みんなが参加できる。野菜の収穫なら、幼稚園児から参加できる。「ゆとり世代」の若いお母さんたちでも問題ないでしょう。

以下、具体的な指導案。

まず、種まきを行う。種が芽を出し、大きく育って、花が咲き、実がなって、熟し、種が落ちるまでを観察したい。が、時間がないなら、まず種まきだけを行って、その先は口頭で説明してもいい。本当は野菜の種がいいのだが、種をまくだけなら朝顔でも不都合ない。野菜なら、ししとうを勧めます。

野菜は人が品種改良して作り出した生き物だけれど、野菜は別に人間のために生きているわけではない。ただひたすらに、大きく育とうと奮闘し、陽の光を求めて葉を広げ、水を求めて根を張る。

ビニール袋をかぶせて口を縛っておくと、1日で袋の内側に水滴がつく。人がハーッと袋に息を吹き込んでも、同様になる。野菜も生きていて、私たちと同じように(まあ実際には違うのだが)呼吸をしていることがわかるだろう。野菜の息遣いはとてもゆっくりで静かだから、私たちは、その生命の熱さに気付かない。

育った野菜は、地味で控えめな、そう、まるであなたのような花を咲かせ、小さな命を宿す。未来へ命のたすきをつなぐため、自らの命を削って奮闘する野菜。実が熟しきった頃、葉は枯れ、萎びて、あとは朽ちるのを待つばかりというような姿となる。**ヶ月の短い一生だった。合掌。

時間差をつけて植えたもう一鉢は、どんどん収穫。「おいしそうですね。収穫して食べましょう」

野菜は、人に食べられるために実をつけているわけではない。生命のサイクルを回すべく、愚直な努力を続けているだけなのです。

白く柔らかい種のひとつひとつに、もっと違った未来がありえた。一度や二度くらい、可能性を閉ざされた幼きししとうの子らのために、我が子の成長を見守ることすら許されないししとうの親のために、泣いたっていいじゃないか。(ちなみにししとうはふつう自家受粉します)

植物を擬人化してもしょうがないが、野菜を食べる私たちには生命を愛でる心がある。植物を生き物と認識する視座を持つならば、自ずと動物への見方も変わると思う。

補記:

いまどきのおいしい野菜はたいてい交配種なので、2世代育成はうまくいかないことが多いです。第1世代で種どりし、第2世代を食べつくすと物語が盛り上がるのですが。

追記:

記事の公開を8月まで延期したため、ししとうの季節は過ぎてしまいました。秋まき野菜(9~10月にまく)なら、えんどう豆を勧めます。(2008-08-08)

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