備忘録

平成20年10月29日

なんでカップ麺なんだよ、庶民代表なら袋面の値段聞けよ

これは私もそう思った。私は知人の家でカップ麺をご馳走されたことはあるが、自分で買ったことは一度もない。正直、割高な食品だと思う。ま、たった10分20分の手間を惜しむのが貧乏人の貧乏人たる所以であり、コストパフォーマンスなど気にせず即席麺を買うのが日本の庶民なんだろう。

忙しくて調理する時間がないとか、バカも休み休みいってほしい。帰宅してから就寝するまでに30分の時間的余裕もないのだろうか。朝食なんか冷凍したのを解凍するだけでいいんだから、シャワーを浴びる前に冷凍庫から出して電子レンジに入れる10秒程度の余裕があれば済む話だ。

有意義なことを何もせずグダグダできる時間をお金で買っているんだ、というなら理解する。しかし時間がないから自炊「できない」といわれるとカチーンとくるね。

レトルトカレーを、家計が赤字で悩んでいる人が買うのも、理解できない。カレーは30分で作れないだろう、って? それはそうだけど、10分で野菜の皮を(皮むき器とかで)むいて切り、なべに放り込んで火にかけたら、あとは1時間くらいテレビでも見ていればいい。

ルーの箱には炒めなさいとか書いてあるけど、無視していい。アクもとる必要ない。どうせ素人には手間をかけても差がわからない。とすると、カレーなんてのは、フライパンに付きっ切りでないといけない野菜炒めなんかよりよっぽど手間のかからない料理である。

野菜に火が通ったら、火を止めて、ルーを入れて水を足し、10分くらい放っておく。ルーが溶けたら10秒かき混ぜて、弱火で放置。またテレビでも見ていればいい。都合、実作業時間20分以下でカレーは完成。これを小分けにして冷凍すれば、レトルトカレーになる。

一回カレーを作れば4〜5食分になる。2回目以降はレトルトカレー状態だから、冷凍庫から出して電子レンジに入れる以上の手間は不要。皿1枚とスプーン1本洗うだけなので、皿洗いも2分間でいい。1食目に30分、2〜5食目は各3分、合計で5食45分だから、1食平均10分間の時間的余裕があれば足りる。

自炊でカレーというと、1時間も2時間も拘束される、というイメージの人が少なくない。なぜだ。

平成20年10月29日

基本的に中火以上を使う料理は放っておくと食材が焦げるから拘束時間が長くなる。自分の味覚がおおらかな方だという自覚のある人(例えば私とか)は、炒め物でも何でも弱火にして蓋をするとよい。水分が飛んだパラッとした仕上がりに固執しない限りは、たいていこれでうまくいく。

手の空いた時間に何をするかというと、私の場合は、洗濯物を畳んだり、ゴミ出しをしたり。弱火+蓋でも、あまり放っておいたら焦げてしまう。面倒な家事をテキパキ終らせる動機付けとして有効。

平成20年10月29日

料理というのは、自分しか食べないなら、ホント楽。献立とか、どうでもいい。八百屋へ行く。安い野菜を買う。そこから2〜3種選んで、煮るか焼くかする。選択肢は2つしかないので、気分で決める。調味料は塩胡椒、中華、めんつゆなど3種くらいあればよく、単純に順番を回す。

調理法が2つ、味が3つで6種。1回作ったら、1食はその場で食べ、2〜3食分を冷蔵庫か冷凍庫に入れる。昼は会社で食べるので、1週間で14食(休日は昼抜き)だ。調理1回で3〜4食分だから、4〜5回だけ調理すればいい。ということは? 仮に食材に変化をつけなくても、6パターンあれば十分なわけだ。

実際には、夕飯を盛り蕎麦やそうめんにしたり、朝食をご飯+納豆+味噌汁でおかずなしにすることもしばしばだから、おかずを作るのは週3回程度。調理法が2つで味が3つ、食材は八百屋の値段次第で変動、このシンプルなシステムで、月に2回以上、同じ料理を作らないで済む。

平成20年10月29日

「コスパ」とはコストパフォーマンスの略だという。

残業が長引いたときは自炊はやっぱり辛い。

私の場合、料理のストックを常に持っておくことで対応している。冷凍庫に必ず1食分以上の冷凍ご飯と冷凍おかずが入っている状態をキープする。さらに、それも尽きたときのために、ホットケーキミックスや、そうめんなどを3〜5食分、持っておく。デニッシュ系のパンには1ヶ月持つものもある。非常食としては役立つ。

家族ってのは冷たくて、人の苦労も知らずにブーブーいう。そういうのを見て育つから、料理を忌避するようになるんじゃないか。一人暮らしなら、そうめんやふかし芋だけの食事で文句をいうバカがいない。

そりゃご飯は炊きたてが一番美味しいに決まっている。でも、だから何なんだ? 冷凍ご飯でいいじゃないか。小食なら3号炊で6〜7食分になるから、朝はパン食なら週1回炊けばいい。会社勤めなら、毎日1食は会社支給のお弁当なり、食堂なり、外食なりになるわけだろう。手の込んだものは週に5回食べれば十分じゃない?

なので私は、自炊では絶対に揚げ物をしない。ハンバーグみたいに面倒な料理もやらない。包丁の技術が必要な料理も一切しない。節約目的の自炊で一番問われるのは、割り切りの技術だと思う。

平成20年10月29日

自炊の話題になると、調理と片付けにかかる時間を残業代と比較する人がいたりする。自分の裁量で残業するかしないか決められるなら、それって管理職であるわけで、残業代なんか出ないんじゃないの。

だから私の認識では、家で何ら生産性のないことに費やしている時間を、1食平均10分、食事のために使えるかどうかという話なんだ。だいたい外食したって、寄り道する時間のロスとかあるわけでしょ。席についてからの待ち時間、てのもある。まあそれはスーパーとかへ食材を買いに行く手間と相殺されると思うけど……。

平成20年10月29日

サラダ野菜は日持ちしない、というが、温サラダにすればレタスだって1週間食べられるわけで……。

レタスは切ってしまうと断面からダメになる。だからレタスの分割は葉単位で行う。

サラダがレタスだけじゃ嫌だ、とか贅沢なことをいうなら、大根や人参も使えばいいと思う。スライサーで千切り(?)にして振り掛ける。

平成20年10月27日

読書週間だそうだ。またぞろ、子どもに本を読ませよう、なんて大人たちがいっている。

アホか。自分が読めよ。大人になった途端に子どもをバカにする連中を見るに、みんなテストが嫌いだった理由はよくわかる。客観的に自分の頭の悪さを突きつけられるのは、じつにじつに不愉快な体験だったんだね。自尊心と衝突する難敵だったんだ。

学校を卒業して安全圏に逃げ切ったら、お互いに自分の専門領域をブラックボックス化して、他人の軽蔑をシャットアウト。己の無能を棚に上げて偉そうに子どもに説教をする。ふざけんな、だよ。

今年は源氏物語千年紀でもある。いつもの読書のジャンルとは別に、古典に目を向けてみるのも一法ではなかろうか。口調のよい古典を朗読してやることも、子供たちによい影響を与えるであろう。

まず社員に読ませるべきだ。すると口先ではみんな効果があったようなことをいうが、実際には日常の言動が少しも変わらないことに気付くだろう。

どこかの誰かさん(今回の場合は読者の「ご家庭」か)に丸投げして、自分では何もやらないから、十年一日のごとく妄言を繰り返すことができるのだ。

平成20年10月23日

ポメラに関する意見をいろいろ読んだが、やっぱり大勢にウケようとすると、機能を増やしていくしかないんだろうな、と。

microSDカードに対応したら「なんでmicroSDHCに対応しないんだ」とくる。基本、microSDのように小さなメモリーカードは抜き挿しに向かない。パソコンとのファイルのやり取りはUSB経由が妥当。microSDは本体内蔵メモリから溢れたファイルを仮に格納するための外部媒体でしかなく、2GB対応で十分すぎるだろう。

いま携帯電話で大量の写真の保存やワンセグ録画などのためmicroSDHCカードを使っている人は、携帯電話で受信したメールをカードにコピーしてポメラに挿したりできないのが不満なんだろうが……。

ちなみにパソコンでSDカードを使っている人は、microSDカード対応じゃ不便だ、SDカードに対応しろ、という。無茶をいうなよ、体積が全然違うじゃないか。

あるいは、ファイル毎の文字数制限、8000字。メーカーは技術的制約によるものではないと説明しているそうだが、それは「不可能ではない」という話だろう。ユーザーの勝手に任せて巨大ファイルを開くと固まるマシンにするか、メーカーが快適な操作を保証できる文字数で制限をつけるか、という設計思想の問題だ。

microSDカードを挿しておけば保存できるテキストの総量は、事実上、無制限といえる。8000字の制約が問題になるとすれば、パソコンで作成した長大な文書の再編集だろう。しかしポメラって、そういう用途を狙った道具なのだろうか。絶対に違うと思うんだよね。

大学ノートが1冊60ページ(30枚)で終ってしまうことに誰が不満を持っているだろうか。手帳なんか、あの小さな版型でもっと枚数が少なかったりするものもある。ポメラは、そういうノートやメモ帳を置き換える道具なのだ。

喫茶店やファミレスで原稿を書いてる小説家は珍しくないらしい。そういう作家さんたちが、何百枚もの原稿用紙を持ち込んでいることは、まずないだろう。だいたい作家さんの日記を読むと、1日に原稿用紙10枚とか、20枚とかいうペースで仕事をされている様子。ポメラで十分なんじゃないのか。

ファイルがひとつにまとまっている利便性というものがあることは理解するが、学生の論文にしたって、章毎に別ファイルで何の問題があるだろう。昔のパソコンは処理能力が貧弱だったので、私は1章を1ファイルにしていた。確認してみると、どの章も原稿用紙20枚に満たない。ふつうそんなものだろう。

赤外線通信機能がほしい。はい、そうですか。すると次は Bluetooth にも対応しろ。さらに無線LAN対応じゃなきゃダメだ。ブラウザをつけろ。電子辞書をセットにしろ。かな漢字変換にSKKを使えるようにしろ。emacsが使えないか。viはどうか。

万人の様々な使い方にみんな応えようとしたら、機能を増やすしかない。

各端末ごとに注力する部分を絞ったNTTドコモの705iシリーズは思うように売れず、「全部入り」の905iシリーズばかりよく売れた。その反省をもとに706iシリーズでは大半の機種がワンセグ機能を搭載した。ワンセグなんて興味のない人の方が多いのだが、「ないと売れない」のだから仕方ない。

おさいふケータイやGPSも同様。通話、メール、カメラまではどうにか普及したが、他は過半の人にとって「なくてもいい」機能ばっかりだ。それでも、機能が欠けていると売りにくい。

追記:ポメラは初回出荷の1万台を完売したという。しかし100万台売れる道具にはなるまい。

平成20年10月22日

以前も同じようなことを書いたが。

RFC違反は許せない、みたいな、例によって例のごとくの反応。

素人考えなのだろうが、同時接続数云々に関して、何年経ってもサーバー側の対応能力が進歩しないのはどうしたわけか。実際には進歩しているというなら、いい加減、RFCが更新されてもいいんじゃないか。RFC2616は1999年発行だ。もうすぐ10周年になる。HTTP1.1の同時接続数の上限がいつまでも2のままなのはおかしい。

そりゃサーバー管理者の側からしてみれば、RFCを錦の御旗にして消費者の要求をはねつけていれば済むなら、それが一番いいだろう。

これは印象論で明確な根拠はない放言だが、マシンの進歩をサーバー台数の節約に回して、マシンの進歩の恩恵を自分たちだけが受けているんじゃないか。同時接続数を増やしたい、もっと速く、もっと速く! という消費者の長年の希望はどうなっているのか。

インターネットで無料サービスばかりを求めてきた消費者に対応するためには、システムを、サーバーの台数をケチる他なく、ようするに全体としてこれも消費者の選択の結果なのかもしれないが。

平成20年10月22日

1.

パソコンで文章を入力することの多い人は、手書きよりキーボードの方が都合がいいと思う。紙の資料に補足説明を書き込むとか、計算をするといった場合は、手書きの優位に揺るぎない。それでも、話を聞いてメモを作る、思いついたことを書き留めておく、といった用途なら、可能であればキーボードを使いたい。

何でも極めれば話が違うのだろうが、私などの場合、W-ZERO3[es] の quwerty キーボードでは思うような速さで文章を書けなかった。VAIO Type U はもっとつらかった。その後、初代の LOOX U で、どうにか納得できた。私は頭の回転が鈍いので、キー配列に難のあるキーボードで思考と筆記の速度が一致したらしい。

それでも LOOX U のような UMPC は電源を入れっぱなしにしておくには向かず、使いたいときにササッと使えないことに大きな不満があった。それに、いくら軽いといっても500gだし、落としたら血の気が引く。関数電卓くらいに、事務用具としての使い勝手を高めた製品を待望していた。そこにこのニュースがきた。

2.

ポメラの対抗馬は SH906iRBK-2100BTJ(or CPKB/BT)か。

一昔前までは、この手の携帯電話用キーボードは有線接続だった。僅かな手間ながら、それが億劫だった。コネクタカバーを開けたり閉めたり。あるいはコードが持ち運びの邪魔だったり。Bluetooth の HID プロファイルに対応した携帯電話が普及しはじめた今、状況が変わっていく可能性はある。

922SH のような「携帯電話の操作を楽にする」という意図の qwerty キーボードは携帯電話本体と統合される他ない。しかし携帯電話のサイズの制約から考えて、パソコンと同等の、思考の速度だけが制約、入力は十分すぎるほど速い、という状態は作り出せそうにない(繰り返すが、何でも極めれば話が違ってくる)。

シンプルな携帯電話+外付けキーボード、という一度は廃れた形式には、やはり一定のメリットがある。2008年型の LOOX U はキーボードを一新して断然使い勝手がよくなったそうだが、2007年型との比較では、LOOX U より CPKB/BT の方が使いやすかった。W-ZERO3[es] とは、比較にすらならない感じだった。

……と書いていくと「じゃあポメラは不要なのか?」となりそうだが、実感としては違う。

お客さんとの打ち合わせの場に、個人的なメモツールとして、紙のノートを持っていく人、ノートパソコンを持ち込む人はいるが、携帯電話だけ、携帯電話+外付けキーボード、という人はいない。

不満はあるが筆記具として使われている、というレベルに、携帯電話はまだ到達していない。大学などでは携帯電話でノートをとる学生もいるそうだが、たいていその水準は低いという。電話のメモ程度。電子機器でまともにノートをとるならパソコンを使うのが現実解だ。

3.

自分が考えたことを書くだけなら、携帯電話で十分という人が多い。入力に手間取る以上に、思考の速度が遅いからだ。だが他人の話を書き取るとなると、これはもう断然、入力のもたつきが問題となる。携帯電話+外付けキーボードの場合、キーボードは及第点だが、かな漢字変換のあたりが苦しい。

EeePC から始まったネットブックの潮流は、ノートパソコンを文房具扱いできる価格にした点で画期的だった。だが、コンパクトになったなったとはいいつつも、厚さ5mmで100g以下の紙のノートとは、可搬性の点で比較にならない。胸ポケットに入る手帳との差は絶望的なまでに大きい。

手書きデータを電子化して管理したい、という需要にはPDAや airpen が応えてきたが、キーボードで入力したい人はずっと我慢を強いられてきた。ノートパソコンの大きさ、重さ、長い長い起動時間、電源の心配……仕方ないとは思っても、不満はいつもあった。

かな漢字変換の処理速度などは実機を見ないと何ともいえないが、ポメラの仕様には心動かされるものがある。

4.

ポメラへの意見として「立って使えないのは致命的」というものがある。私は、ポメラが手帳を置き換える製品だとは考えていない。B5版やA4版のノート、そしてノートパソコンを代替するもの、とみている。大学ノートを立って使うことは珍しいはずで、欠点というにはあたらないと考える。

キーボードの特性上、紙のノートに厚さでは敵わない。可搬性を高めるには折りたたんで小さくするのが妥当だろう。たしかにポメラの移動形状は手帳に近い。が、実際に使うときノート程度の面積になるところに、ポメラのコンセプトがよく現れているのではないか。

1ファイル8000字、本体内蔵メモリに6件まで保存可能、という仕様も、ノートの代替ならば納得できる。原稿用紙120枚分なんて、すぐ使い切ってしまう? そうかもしれないが、2GBまでのmicroSDカードに対応しているから、本体内蔵メモリに固執しなければいいのではないか。

*たぶんメモリが貧弱なので文字数制限をしておかないと、大文書を開いたときに固まってしまうのではないか。快適に使える範囲内で文字数を制限するのは仕方ないと思う。

ガバッと開かなきゃメモを読めない構造にも疑問の声が出ている。でもB5ノートを読むにはB4のスペースが要るし、A4ノートならA3だ。それで何か不満ある? ポメラはメモ作成ツールであって、PDAではない。

モバイルテキストビューワなら携帯電話でいいはず。USBホスト機能を持つWindows Mobile機があるならケーブルひとつで同期を取れるだろうし、ふつうの携帯電話ならmicroSDカードを差し回せばいい(これは正直、面倒だと思うが)。

やっぱりこの「PDAではない」というあたりで理解不能となっている人が多いみたい。データの同期が……とか、カメラがほしい、とか。同期を取りたければ、ポメラではなくパソコンに、接続時に自動でデータを同期するソフト(ばっちり同期がお勧め)を入れておけばいい。

5.

ポメラの価格は約3万円なので、「だったらEeePCを買う」という人も多い。それはそうだろう。1kgの重さ、あの体積、電源の問題に、さして不満を感じていない人も多い。汎用性も比較にならない。それでも。

EeePCはネットブックの中ではとくに電池の持ちがよく、大容量バッテリーなら8時間動作するという。Windows XP の休止機能を駆使すれば、毎晩充電している限り、まず電源の不安はない。しかし現実にはどうだろう。充電地はいずれヘタってくる。

外回りの営業以外、バッテリーの買い替え予算はゼロ。セキュリティの都合でサポート切れのOSは更新されるが、ハードウェアは壊れるまでずーっと使い続けなきゃならない。

会社のノートパソコンユーザーは、たいていACアダプタを一緒に持ち運び、まず電源を確保する。最近は大人数の会議になると、コンセントの取り合いだ。とうとう小型電源タップまで持参する人が現れた。8年以上も毎日使い続けたノートパソコンのバッテリーの性能は気休め程度だ。

ネットブックもACアダプタごと持ち運ぶと嵩張る。ポメラは単4電池2本で20時間動作するので、いざというときの備えは小さな電池2本だけで足りる。しかも2秒で起動するから気軽に電源をOFFにでき、実質的な作業を何もしていないのにグズグズと電源をつけっぱなしにしてしまった、となりにくい。

6.

いろいろ書いたけど、ニッチ商品が割高なのは仕方ない。ざっと5万台を超えたら金型代はそれほど重要ではないが、1万台以下なら製品1台あたりの開発費や金型代が、ものすごいことになる。開発費をペイして黒字が残るくらいには売れてほしい。せっかくいい製品が世に出ても、売れないとすぐに消えてしまう。

ポメラの販売が軌道に乗れば、追加ロットの価格は下がるかも。私としては、応援買いしたい。

平成20年10月21日

2008年は振り込め詐欺が過去最悪のペースで発生しているそうで、この10月は警察が対策強化月間として頑張っているのだという。

祖母の葬儀などで両親や親戚と話す機会があったが、50代以上で、持ち家があって、何年も安定して保持している電話番号のある人のところには、一通り詐欺電話が行き渡っているようだった。昨今は「オレオレ」なんて低級な詐欺はすっかり鳴りを潜め、最初から子どもの名をきちんと名乗るのだそうだ。

詐欺師のターゲットがみな一度はウソ電話やウソ手紙(還付金云々の案内とか)を受けているとすると、いよいよ振り込め詐欺対策は難しい領域に入ったといってよさそう。

どうしたって「頭が悪い」人はいる。これはどうにもならない。簡単な計算だって、無作為に100人集めて100人全員に100点満点を取らせることは絶対にできない。SPAMメールと同様、1%未満の成功率でも人件費を賄える犯罪となってしまっているとすれば、もはや実質的にお手上げだろう。

平成20年10月15日

株価が下がって大騒ぎだが、人生の先がまだ長いなら、別に慌てることは何もない。淡々とTOPIX連動とかのインデックス型投信を一定額ずつ毎月買い続ければいい。

株価は半減しても企業の売上は半分になっていない。株価は将来の成長・衰退を織り込んだ企業価値を反映するものだけれど、ならばこそむしろ、こうも目先の要因ひとつで価格が乱高下するのは妙な話だ。ま、こういうことに一喜一憂しないためのドル・コスト平均法なんだよね。

結局、素人が難しいことを考えても仕方ないわけでさ。値下がり局面と決め付けて買い控えるのもヘンな話だけど、逆に「今が底値だ」とかいって資金をがつがつ投入するのもおかしい。先が見えないからこそ、定期的に定額投資をするのです。

5年前のallaboutの記事だけど、今こそ読み返すべき。日経新聞なんか一生懸命読んだって仕方ないんだって。

こんな時もどんな時もない。去年も今年も来年も全く同じスタンスで淡々と買い続ければいいと思う。

平成20年10月14日

前期のフジテレビ「月9」ドラマ「太陽と海の教室」の古典コテコテな描写には正直ひっくり返った。演出から何から全部、古い、と思った。でもそれなりに視聴率は取ったらしい。いっそ清々しいほど、徹頭徹尾の古めかしさ。うわぁ……とか毎回思いつつ、最後まで見てしまった。

今期のフジテレビ「火9」ドラマ「セレブと貧乏太郎」もまた古典コテコテ。非現実的なんだけど手垢のついた金持ちの描写、貧乏人ファンタジー。……と思ったんだけど、第1回の中でもそれなりに個性的な展開があって、よかった。安心感のある展開で間口を広く取って、自分の領域でホントの勝負、こういうのはいいね。

好きになれないけど引っ張られちゃうより、自分はやっぱり、素直に楽しめる作品がいいな。

平成20年10月13日

「男はつらいよ」映画第1作を見る。高度成長がほぼ終わった家庭に、日本が貧困に喘いでいた1950年代のメンタリティを持った寅次郎がひょっこり帰ってくる物語。

そうか、シリーズが安定して続いたわけだよな。だいたいその頃からずーっと日本の社会はなーんも変わってないもんね。2ちゃんねるで20代と40代の書き込みの区別がつかないわけだけど、それと話はつながってる。「男はつらいよ」シリーズ以降に生まれた日本人の価値観には大差がない。

ところで、さくら役の倍賞千恵子さんと、その妹の倍賞美津子さん、顔立ちは似てるのに、姉は生まれ育ちはともかく性格はお嬢さん風の役を得意としてきたが、妹は崩れ役を得意とするこの違い、いったい何に由来するのだろう。本人の性格の差なのかなあ。

若い頃はどちらもすっきりした美人だったんだけど、いつの間にか、とくに美津子さんの方、役柄に顔立ちが引きずられちゃったような感じで。いや、それは必ずしも悪くはなくて。このところ姉が歌手業を主とし、妹が女優業でむしろ近年いい仕事が多いのは、とてもよくわかる。あの顔だから説得力がある役が多い。

美人女優は歳を取るにつれ需要が減っていく。そもそも物語に老人枠は少なく、わずかに残されているのは、庶民的な、しょうもない中の優しさ、苦労した末の気品、あるいは加齢で煮詰まった性格の悪さを体現するキャラクター。それを表現するのには、今の美津子さんのような風貌がぴったりなんだと思う。

数少ない美人役は、八千草薫さん、吉永小百合さん、これからは松坂恵子さんもその列に加わるのかな、ともかくあまり人数を必要としていないみたいなんだよね。

黒澤明「静かなる決闘」の看護婦役、千石規子さんが素晴らしくて胸打たれたんだけど、その後の経歴を見るに、老いてから有名になった女優さんといってもいいと思う。老いると、かつては正統派の主演女優なんて考えられなかった人が、すごくいい役に恵まれるようになったりする。

倍賞美津子さんは、どっちもやってのけたわけで、いやはや、すごいよね。

平成20年10月13日

ググッてみたら大勢が同じことを書いてたんだけど、やっぱりティム・バートン版「サルの惑星」はミスキャストだと思う。人間側の主役が見事なサル顔なんだもの。でも逆に考えると、だいたい誰が見てもそう思うわけだから、これはミスじゃなくて意図的なものなんじゃないか。

んー、例えば、人間もサルも同じじゃないか、とかね。

平成20年10月13日

日本テレビの`08年秋期「土9」ドラマ「スクラップ・ティーチャー」を見てげんなりする。

なんで学校の統廃合が生徒や教師のやる気の低下につながるのだろう。だって、そうなる必然的な理由なんてないじゃないか。学校がなくなっても教育は継続する。それに年度の区切りまで学校は存続するのだ。自然災害で年度途中の廃校になるよりいい。教師なんか単に転勤するだけで、所属組織の変更もない。

視聴率がどうなるかわからないが、しかしこれがヒットするなら、世間では学校の統廃合とはこういうものだと認識されていることになる。残念だね。テレビドラマに啓蒙的であることを望んでも仕方ない、広告商売なんて客のご機嫌取りだと思う。思うけど、それだけに、これが日本人の認識か……とガックリくるわけで。

逆の意味でアレッと思ったこともある。全国学力統一テストを受けたいと生徒が思うこと。同調大好き観念が昂じてそうなってるだけみたいなんだけど、でも不思議な感じ。一人だけテストを受けられないのは嫌だ、と思わせる仕掛けがあれば、テスト嫌いの本能なんか消し飛ぶ……意外と真実を衝いているのかも。

いやまあ、教師をテスト時間に間に合わせるためにヘリコプターや重機を駆使しちゃう堂々たるフィクションを相手に何をいってるんだという話ではあるが。でも公式サイトを見るに、製作者の意図としては、解決方法は冗談でも問題設定は現実を切り取っているつもりなわけで。

面白いんだから文句をいうような話でもないのかな。

平成20年10月13日

1.

TBSが大プッシュしている`08年秋期「土8」ドラマ「ブラッディ・マンデイ」(原作は週刊少年マガジンの大型連載)は、単純にリアリティということを考えると噴飯モノ。だけど別に、それはそれでいいんだろう、と思う。ようは想定する視聴者(の多数派)が(仮にリアリティを感じないとしても)納得すればいい。

糸井重里さんが監修したコンピュータRPGの「MOTHER」「MOTHER2」は地球を舞台にしているはずなんだけど、当たり前のように超能力が登場する。少年が無茶苦茶な「発明」をしたり。アイデアがどうこうというより、なぜ素人が設備もないのにそんなものを作れるのか、という。それでも大勢が傑作と思ってる。

どうして今、自分が「MOTHER」のアホらしさは少しも気にならないのに、「ブラディ・マンデイ」のバカバカしさについては何かいいたくてうずうずしているのかは、わからない。が、その気持ちも1日経てばどこかへ消える。

現実の殺人事件の報道に接して、安直に「事実は小説より奇なり」なんていう人は、世の中に数多あるエンターテインメント小説を読んでいないのだろう。清涼院流水さんのとか、絶対に読んでない。あれを読んでなお、事実は云々とか言い出す人がいるのだろうか。「金田一少年の事件簿」や「名探偵コナン」でもいい。

「家政婦は見た!」にしたってさ、あんなにしょっちゅう派遣先の家庭を壊して回る家政婦がいるわけがない。1997年の秋には連続ドラマ化になって、毎週のように「事件」を暴いていたわけで。

ところで、テレビ製作者のインタビューなどを見ると、「リアリティーにこだわって専門家の意見を参考にしながら作ってます」なんて話がよく出てくる。出来上がったものを見る限り、「ご冗談でしょ」といいたいが、つまりはそういうことじゃなくて、そういう談話自体が視聴者受けを狙ったものなんだろうね。

見る人が見れば茶を吹く描写でも、のめり込んで見ている人はたくさんいるわけで、どういうわけかリアリティーとやらを重視しているらしい視聴者にとっては「自分が楽しんでいるドラマには専門家の保証つきのリアリティーがある」ことが嬉しいみたいなんだよな。

面白かったならリアリティーなんかどうだっていいだろ、って私などは考えるのだが、そんなこと力説しても「はあっ!?」てな反応。「電車男」や「ロト6で3億2千万円当てた男」が創作だとか何とか、どうでもいいだろうに、それで「がっかり」する人がいるから、ネガティブキャンペーンが意味を持つ。

最近、ドラマよりドキュメンタリー、みたいな流れがあるそうだけど、新聞や週刊誌が嬉々としてそういうことを書くのって、もう何度目? 半分創作みたいな話を「事実」として報じてる媒体としては、「作り話」を「作り話だからつまらない」とか堂々と書けちゃうのは溜飲が下がる思いなのかもね。

ま、その新聞や雑誌にも小説が連載されていたりするわけだけど。いつだって少数派の中の少数派への配慮は可能な範囲内できっちりやるのが商売の基本。

2.

「ブラッディ・マンデイ」は素人でもフィクションである箇所がよくわかるので、早速いろいろ嘲笑のネタにされているのだけれど、海外ドラマと比較すると子ども騙し、みたいな意見は解せない。「24」とか、バカバカしさの極みじゃないですか。「ER」とかリアリティ志向といわれている作品でも大差ない。

多少は騙すのがうまいのかもしれないが、いずれにせよ、ここが嘘だったら全体の話が成立しないだろう、みたいなところでフィクションが混じってる。たまに、じゃなくて、しょっちゅう。そういうことに、気づいているのかいないのか。

私は技術者ばかりの職場で働いているが、意外と理系人間でも自分の専門以外のことはちっともわかってないんだな、と思う。よくよく考えてみれば自分もそうなんだけど。

とくに誤解されているのが、監視カメラの粗い画像を「処理」すると鮮明になるとかいうやつ。95%くらい嘘。静止画からの「処理」は100%嘘。国内、海外を問わず、映画やドラマで当たり前のように出てくる「技術」から、「そんな馬鹿な」と疑うことすら忘れてる人が多い。

*製作陣が技術面のリサーチの徹底を誇っていた「科捜研の女」にすら、この非科学的な画像「処理」が登場したから驚いた。現実には不可能なのだが、世間的には可能であると思わせたいのだろうか。あるいは単純に脚本家が他に犯人をスマートに特定する道筋を思いつかず、時間切れで押し切っただけなのか。

3.追記

はてなダイアリーでは大好評っぽい。これくらいの非現実的な設定・展開はワクワクするのに障害とならない、と。

そうか……。リアリティーがどうとかいって貶している人ばっかりに思えたのは、私の情報収集先がそういう人たちの巣窟だったからに過ぎないわけか。

平成20年10月13日

深夜に「白夜行」テレビドラマ版の再放送が行われていて、今まとめて見てる。原作は刊行直後に読んでいて、直木賞を取れなかったことに残念がっていたことを覚えてる。常人ならざる価値観を持って生きる二人を描いた作品だったと思う。

ドラマ版だと、やっぱりテレビだからしょうがないのかな、主人公二人を、どうにかして共感できる犯罪者ということにしたいらしい。なんだか悲しい。異常な二人の内面なんか書いたところで絵空事だろう。常識人の空想する異常犯罪者像でしかない。だから作家は、異常な二人に振り回される周囲の一般人を描いた。

もっとも、東野圭吾さんも、多分に編集者の商売上の都合であるにせよ「白夜行」の姉妹作という触れ込みで刊行された「幻夜」においては、相当に俗っぽい描写をしてる。仮に雪穂と美冬が経歴が違うだけで中身は同じ人間だとすると、テレビドラマ版もそう悪くないのかも。

個人的には、雪穂は淡々と自らの想像する幸福のステップを淡々と駆け上がり、亮司もまた淡々とその障害を排除していく、二人が会うことも話すことも(基本的に)ない、そんな姿を想像していて、それはもちろん一般人の共感を敢然と撥ね付けるものなんだけど、そうでなきゃ「神」話たりえないだろう、と。

でもコンピュータRPGの感想などを見るに、プレーヤーと価値観の相容れない主人公を設定すると、とかく作品全体の評判が落ちるのが世の定め。日本でもなければ地球でさえない異世界を舞台とし、人間に似てはいるけど人間でさえないキャラクターを設定している作品なのに、そういうことになる。

ましてや広告収入だけで製作しなきゃならない地上波民放局製作のテレビドラマだもの、一般人に共感できない主人公じゃあ困るわけだよな。いや、だったら無理してドラマ化する必要ないだろう、といえばそうなっちゃうような気がするんだけど。

とはいえ宣伝効果で原作が100万部を突破、東野さん的には、ドラマ化を許可した結果、より大勢に自分の作品を届けることができたわけだ。1000万人の誤解が、代償として納得できるものかどうかは、東野さんの価値観次第、か。

ところで「白夜行」テレビドラマ版で雪穂を演じる綾瀬はるかが、10月25日公開の「ICHI」で主役の座頭市に扮するのだという。いったい何のために市を女性に変更したのか。公式サイトによれば、現代の観客が共感できる主人公にしたかったから、だそうだ。

なるほど、たしかに座頭市は常人の思考を超越したダークヒーローだった。凡人の甘っちょろい同情に潜む欺瞞を見抜き、斬り捨ててきた。勝手に親近感を抱いて近付いた者の少なからずが、疎んじられ、ときに怒りさえ買い、心を傷つけられた。そんな彼だからこそ、救うことのできた世界がある。それが座頭市の世界。

いま、それじゃあメジャーな映画は作れないのだろう。カッコいいが、共感できない主人公ではね。共感できない=理解できない、つまらない……何かそういう、価値観の多様性を面白いと思えない、感性のありようが、蔓延しているような気がする。

私は近年のドラマや映画の絵作りは本当に素晴らしいと思ってる。あとこれは異論も多いだろうけど、役者も芸達者だと感じる。耳の悪い私の実感として、滑舌が悪くて何をいってるか聞き取れないことは、古い作品の方が多い。それだけに、脚本が残念。

モノクロ時代の作品でも、子ども向けのは今も昔も大差ない。今でも常識的な考え方に挑戦する作品は、そこそこあるわけで。問題は大人向け。とくに時代劇。もともと時代劇というのは、現代とは異なる価値観に生きる人々を描くための舞台設定じゃないか。なのにどうして、共感主義で物語を作ってしまうのだろう。

狙い通り、それで大受けしているならいい。でも実際には、そうでもない様子。でもDVD込みで収支トントンなら、時代劇を飯の種にしている人が食いつなげる。それでいいっちゃいいのだけれど。

大河ドラマもずいぶん前から、現代人のメンタリティを持ったキャラに侵食されてるよね。2001年の「北条時宗」は楽しめるドラマだったけど、それでも、これなら歴史ものじゃなくてSFにでもすればいいんだ、とは思った。ま、そうはいっても歴史ものだから大勢が視聴したのだろうし、資本主義の帰結か。

追記

「白夜行」テレビドラマ版の最終回を観た。最後まで泣いたり笑ったり忙しい雪穂と亮司だった。プロデューサーは二人を「モンスター」にしたくなかった、らしいが、敢えていうなら、そういうのは凡人の思い上がりだと思う。何でも自分の共感できる小さく狭い世界に引きずり込んでしまう蛸壺主義。

あと原作が高度成長末期からバブル時代までを背景とすることで説得力を与えていた部分で、いろいろ無理が出ている感じも少々。2004年の「砂の器」テレビドラマ版が、時代を半世紀近く移した結果、いろいろ設定を変更したにもかかわらず、それでも犯罪の動機がリアリティーを欠いてしまった例を思い出す。

ま、いろいろ文句をいってるけど、「白夜行」テレビドラマ版も面白かったから最終回まで見続けたわけで。八千草薫さんの演じた雪穂の義母、とくにその最期とかね。

にしてもドラマ版の主役二人、自分と同年齢の設定なんだよね……。うーん……。ランドセルに堂々と「人殺し」と書かれている小学生を放っておくような時代じゃなかったと思うんだけどなぁ。

さらに追記

DVD版の第1巻を観た。製作者のコメンタリーには呆然。「小学生で『風と共に去りぬ』ってすごいよね」「ふつうは字とか読めないよね」なんて話してる。いや、だから、フツーじゃない二人だから、フツーじゃない人生を歩むんじゃないのか。

予想通りっちゃ予想通りだったけど。まあそりゃそうだ、テレビドラマの製作には極めて大きなエネルギーを要する。そのヘッドには確信が必要だ。原作がどうだこうだというのはもう忘れて、こういうドラマを作りたいんだ、という確信、信念が。ケラケラ笑っている脚本家には苛々するが、これくらい自信がなきゃ、仕事にならないんだろう。

たしかに第1話はいい。役者(福田麻由子と泉澤祐希)が最高。モノローグはカットした方がもっといいのに、と思うけど、それでも。あと別れのシーンでボロボロ泣くのがまた違和感ある。が、石丸PDは、泣くのが正しいんだという。もういい。

なんか疲れた。初回と最終回だけのEDが好き。