A地点で100円で買える商品をB地点へ持っていくと200円で売れるとき、A地点で商品を大量に買ってB地点で売るのは、正当な経済行為だ。濡れ手で粟の大儲け、と見えるが、さにあらず。A地点では需要が増えて価格が上がり、B地点では供給が増えて価格が下がるので、結局は手間賃くらいの価格差となる。
さらに時間が経つと……価格が上がったA地点で商品の生産が増え、次第に価格が下がって100円へ復帰していく。それにつれてB地点の価格も下がっていく。仮に手間賃が20円なら、120円へと近付いていく。
ネットでは、A地点とB地点がすぐそばのように見えるので、「不労所得」を得ているとして、転売屋は倫理的に批判される。しかし本来、市場の需給関係から導かれる価格が「定価」と乖離していることを明らかにする転売屋は、有意義な存在のはずだ。
もし商品の生産と価格の変更が瞬時に可能なら、生産者は現在の売れ行きを見て柔軟に生産量を調整し、可能な限り安く、大量に商品を供給することが可能となる。しかし実際には、生産には多大な準備と長い時間がかかる。そのため、生産者は市場の声を十分に聞けないまま商品の供給量を決定しなければならない。
すると、生産者が「過少供給による機会損失より、過剰供給による直接損失を嫌う」結果、商品の供給は過少となりやすい。結果、商品の価格は高止まりする。60~70年代の岩波新書などには、これを物価上昇の一因として批判する意見がしばしば登場している。
価格が高止まりしているとき、企業には機会損失があり、本来もう少し価格を下げても企業の利益は増大するはずなのに、日本の経営者はバカで、みすみす商機を逃している、というのが経済学者の意見だった。その後、需要の成長が弱まってデフレに陥った日本経済で生産過剰が問題となったのは皮肉なことだ。
さて、いまや供給不足は過去の話になったかといえば、さにあらず。転売屋のいるところ、必ず供給の過小が存在する。
転売屋が出現する典型的なジャンルは、チケット、ゲーム機、ゲームソフト、限定版のDVD、……。
キーワードは「定価」だ。各業界が「定価」という計画経済の発想から離れられない事情は様々だが、いずれの業界においても、市場による需給調整を否定した結果、必然的にミスマッチが生じている。
「定価」のない商品であれば、需要を供給が上回れば速やかに価格低下で調整され、逆に供給不足の場合も価格が上昇して需給が一致する。その結果、需要曲線が明らかとなり、利益が出るギリギリまで生産を拡大することが可能になる。
これに対して、「定価」のある商品は、供給過少の調整に困難を抱えている。商品が「定価」で完売したとき、生産者は需要曲線を描けない。ある1点が需要曲線の内側だとわかるだけ。よって直接損失より機会損失をマシだと思う生産者は追加生産を抑制し、価格は「定価」に張り付いたまま品不足が続くだろう。
任天堂の商品供給計画は「品薄を演出して飢餓感を煽り、ブームを持続させる」などと解説されることが多いが、それは後講釈だと思う。直接損失を嫌う経営方針のため増産計画で冒険をできず、結果的に品薄状態が続いているのだと私は考えている。
ニンテンドーDSiの販売について、経営幹部は報道陣に対して商品の立ち上がりの速さを誇ってみせた。任天堂だって、本来は機会損失を減らし、可能な限り大量に商品を供給したいはずだ。新ハードの立ち上げ時なら、なおさらそうだろう。しかし需要曲線がわからないので、保守的な計画に甘んじているのだ(多分)。
現状、消費者の謎の心理的抵抗のため、転売市場は大きくなれずにいる。そのため転売市場の価格は市場の需給を素直に反映せず、参加者の特殊性ゆえバイアスがかかっている。しかし本来、転売市場は「定価」の壁によって見えなくなっている需要曲線を明らかにし、生産者の適切な増産を促す力を持っているはずだ。
……ていうか、そうなったらもう「定価」自体が象徴的な意味しか持ち得ないわけですが、そもそも「定価」というのが不合理なので、むしろそれはよいこと。
サッカーW杯のチケットでもそうなんだけど、なぜ消費者が定価販売に固執するのかがわからない。なぜ「定価」が生き残っているのかを考えていくと、「消費者が望んでいるから」というあたりに落ち着く。しかし消費者に具体的な利益はほとんど見当たらない(少しはある)のである。
オークションより抽選の方がいい、なんて意見もよく聞くんだけど、これも同じ。生産者に大きな利益があれば、いずれ商品の供給が増えて、ゆくゆくは価格が下がる、という道筋を近視眼的に封じてしまうのは、賢い選択とは思えないのだが。
サッカーW杯だって、もっと儲かるなら観客席やパブリックビューイングが増えていくだろう。それなのに定価でチケットを販売して、自ら売上を制限してしまう。人気カードで十分に儲けず、不人気カードで損失を出す。キャンセル待ちを期待して無謀な行列を作る人々の労力も無駄なら、ガラガラの客席も無駄の極みだ。
社会主義国が次々倒れて、計画経済なんかうまくいかないと、みんな思い知ったはずだ。定価販売とは、まさに計画経済の発想だ。計画に「価格が高すぎる」失敗があるように、「価格が安すぎる」という失敗も起こりうると、なぜ思い至らないのか。
ダフ屋がよくないのは、市場が見えないことだ。需給よりも口八丁で価格が決まってしまい、消費者に不利だ。ヤフオクも(ダフ屋よりはるかにマシだが)市場が見えにくい。その点、Amazonマーケットプレイスはよくできている。(狭義の)ダフ屋の規制は正しい。しかし転売市場そのものを否定するのは間違いだ。
価格による需給の調整は、将来の生産の増大につながる。これを頭ごなしに否定しないでほしい。
私の主張は約5年前に書いた通りだが、チケットの転売について、少しだけ補足したい。
転売屋がチケットを買うのは、転売するためだ。最終的に、多少の売れ残りは出るにせよ、大半のチケットはファンの手に渡る。つまり転売屋は、ファンからチケットを奪ってはいない。チケットを手に入れるのにふさわしいファンを、主催者とは異なる基準で選別しているだけだ。
需給から決まる「価格」と「定価」の差額を転売屋が手にするのは嫌だ……としても、公式によるオークション方式のチケット販売に反対する理由はないだろう。本文で述べた通り、条件を変えて何回かオークションを試せば需要供給曲線が見えてくる。「希望小売価格でチケットの需給が一致する販売数量」の見当がつくなら、もっと攻めて供給を増やしたい主催者が多いと思う。
また、供給過少だから転売による価格吊り上げが成功するのであって、需給がほぼ一致していれば、転売は絶対に失敗する。通常、転売屋が買えるチケットは一部である。公式から定価で買えるものを、転売屋が高く売るのは無理だ。仮に買占めできたとしても、定価で需給が一致していたなら、定価より高くすれば必ず売れ残るから、仕入れ代金を考慮すれば絶対に損をする。価格が合理的なら、転売屋は特殊な需要を満たす以外に生き残る道はない。
みなが現在の定価と同等の価格でチケットを買える未来を実現するためには、生産者が需要供給曲線を探索する試みを避けて通れない。一時的にはチケット価格が高騰しても、それは過渡期の問題だ。(新進気鋭のアーティストなどの場合、なかなか安定せず過渡期が続くだろうが……)
ITの発達によって、かなりの割合のチケットについて、公式がオークション方式でチケットを売ることが、現実的な選択肢のひとつとなった。新しいやり方には反発も大きいだろうが、いずれはその合理性が理解されると信じたい。