趣味Web 小説 2009-02-10

「相続税100%」の現実的な落としどころ

はてなブックマークでは、「相続税100%」に賛成する人がけっこういる。自営業の人や、大都市の中心部など地価の高い土地に建つ持ち家に暮らす人が少ない、ということなのだろうか。

最近、世間で相続税が話題になったのは、80年代後半。

後にバブルと呼ばれる地価高騰が進む中、東京の中心部などにおいて、遺産が相続税の控除枠を突破して、焼け野原から復興させた土地を追い出される人々が続出した。土地の有効利用? 経済的合理性? そんなものは滅びろ、と国民は怒りの声を上げ、基礎控除額はバブル前の3倍程度まで引き上げられた。

ただ、政治は税制の変更には慎重。最後の基礎控除増額は、地価下落が深刻な問題を引き起こしていた1994年。皮肉なことに、都市を再開発して新しい事業を興そうとする人が減ってしまったため、基礎控除増額の弊害が少ないということで、さしたる議論もなく決まってしまったようだ。

相続税の基礎控除額の変遷
1958年150万円+30万円×法定相続人の数
1962年200万円+50万円×法定相続人の数
1964年250万円+50万円×法定相続人の数
1966年400万円+80万円×法定相続人の数
1973年600万円+120万円×法定相続人の数
1975年2,000万円+400万円×法定相続人の数
1988年4,000万円+800万円×法定相続人の数
1992年4,800万円+950万円×法定相続人の数
1994年5,000万円+1,000万円×法定相続人の数

そもそも1905(明治38)年に相続税が創設されたとき、基礎控除は存在しなかった。1947年に民法改正で家督相続が廃止されて新相続税法が制定され、さらに1950年、シャウプ勧告に基づき全部改正されたときにも、まだ基礎控除はなかった。

1958年に基礎控除が設けられたのは、国民の生活が安定し、一般庶民も子孫に残したい遺産を持つようになったことによる。当時の岩波新書を読むと、都市近郊の農家と零細な自営業の保護を訴える意見が目立つ。経済縮小を招く生産主体の消滅は何としても防がねばならない、とする。

1975年の大改訂は、列島改造ブームと狂乱物価の帰結。高度成長を経て農家も自営業者も減っていたが、代わりに市街中心部にある住宅の相続などが問題となった。「住みなれた土地を追い出される人々を見捨てる政治は断固許さない」という国民の声が、限られた資源である土地の最適配分という経済原理を叩き潰した。

しかしこうして地主の固定化が進み、しかも多くの土地が低層建築の個人住宅に事実上、用途が限定されてしまった結果、いっそう「市場に出た貴重な土地」の価格が高騰する悪循環となった。地価が安い内に暮らし始めた人が永続的に利益を得、土地の有効利用が進まない、たいへんな不合理が生じてしまった。

家主自身が暮らす住宅は、それ自体が富を生むものではない。土地の取引価格が上昇する中、住宅を保護するとなると、農地や自営業の保護とはレベルの違う基礎控除額の設定が必要となる。1988年以降の改定ではいっそう住宅保護の意味合いが強まり、都市部の地価高騰に引きずられて途轍もない基礎控除額となった。

第一生命経済研究所の調査結果などを見るに、みな大して相続などしていないことがわかる。この程度のものを守るために、現在ほどの基礎控除が妥当なのかどうか、個人的には疑問を感じる。

しかし考えてみると、地価高騰の際に相続税を呪ったのは、まず相続させる側であった。

貧しい時代に生まれ、兄弟も多かった自分は小さな遺産を相続するのが精一杯だったが、自分の子どもたちには遺産を残したい。アンケートにある通り、お金をたくさん残そうとするのは少数派だが、不動産は残したいのだろう。親子で暮らす場合、自分が亡くなった途端、子らが住居をなくすのも堪らなくつらいだろう。

いま「相続税100%」を牽引しているのは持たざる者の怒りだが、多数派の共感は得られまい。「相続税100%」は、家族という相互扶助システムに大きな打撃を与え、個人が資産を保有する動機を喪失させ、多くの人々の生活と人生設計を破壊する施策だ。山手線の内側から貧乏人を一掃する劇薬でもある。

他人事なら気軽に改革を口にするが、自分のこととなると保守的になるのが庶民様。学校の統廃合くらいでガタピシいうのが多数派のコンセンサスなので、とてもじゃないが政治的に通らないだろう。

「リフレ+基礎控除の据え置き」が現実解だと思う。これだって、実際に地価が再び上昇したとき、守り通すのは並大抵のことではない。

補記:

遺産の過半は不動産であり、「とくにまとまった遺産を残すつもりはない」人が多いにもかかわらず、遺産が巨額になるのは、このためだ。「相続税100%」では金融資産に焦点を当てた議論が多いが、もともと7割はさしたる貯蓄がない。(厚生労働省:平成16年国民生活基礎調査の概況

貯蓄が一番多いのは60代で、70代になると、きちんと減っている。10年で200万円くらい。これは平均の話で、1000万円以下の貯蓄しかない人はもちろん、貯蓄を概ね維持している。100歳まで生きちゃったらどうしよう、ボケちゃったらどうしよう、と思うのは当然で、1000万円以下の貯蓄を取り崩せというのは酷だ。

ともあれ金融資産は、一部の人を除けば、大した金額ではない。それでも、これを全額没収すると、「葬式もできない」とか、「残された子はどうなる」といった問題が激増する。だからそれは増えた税収から公的扶助で……のかもしれないが、個人の人生に行政が半強制的に踏み込む領域を増やしたい人は多くないだろう。

さらに不動産の100%没収は、個人名義で不動産を持つリスクを非常に高くする。個人の不動産所有は終る。お金と違い、家屋は分けられない。夫婦名義の家、夫が死んだら、半分が妻、半分が国のものとなる。だが国が半分権利を持っているのだから、ホームレスの支援に半分使わせてもらう、というのは無理だろう。

いろいろ考えていくと、結局「相続税100%」は思考実験以上の意味を持たないように思う。

家族のような個人的な人間関係によるコンパクトな相互扶助は不平等の温床である、というのは、なるほどそうかもしれないが、その冷たさに多くの人は耐えられまい。持たざる者は「自分はそれでも生きてきた」というのだろうが。

地方自治が受益と負担の距離を縮め、柔軟な行政を実現する方法として支持されるように、家族のことは可能な限り家族の中で解決したいと考えるのが多数派の感性だろう。例えば、親を亡くした子がみな平等に一文無しになり公金で生き延びる他ない社会は「平等で素晴らしい」だろうか。No という人が大多数だろう。

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