ときどき聞くような話。
なんで、シンプルに短時間で埋葬して低額で済むやり方を選択できない世の中になってしまったのだろうか?誰の洗脳だ?何回も言いますが、私には全くもって意味が分かりません。しかも、こんなひねくれた考えをして、葬式などに出ないと、周囲から揶揄されること間違いないだろ。あー意味不明だよこの習慣というか風土というか。
そうやって自分が気に入らない物事に全く理解を示さず一方的に非難することを是とするなら、自分が抑圧されるのも当然の帰結です。自分の意見は正しい、正しいのに抑圧されるのは理不尽だ……そう言い募るだけならば、批判の対象と自分自身に何の差もないことを知るべきだと思う。
どうせ他人の考えは変わらない。だからこれは個人の選択の問題だ。そう割り切った方がよい。
私の親族の場合、かつてはみな**家代々の墓に入っていたのに、この100年ほど、いろいろ豊かになったので夫婦単位、個人単位の墓を作る傾向にあった。日露戦争で亡くなった方の墓は3mの石碑だからすごい。3つ隣にあるフィリピン戦線で亡くなった方の墓が50cmほどの高さしかないのが悲しい。
ところが平成になって、再び代々の墓が復権。母方の祖父母は個人名を刻んだ墓を「不要」とした。自分たち自身が墓参りを億劫に思うようになったので、子孫に墓参りを求めても無理筋だろう、と。既に墓が多すぎて盆暮れの手入れがつらいということで、墓の整理(可能)を検討していたくらいだった。
いま火葬場へ遺体を持って行くと、簡素な葬式みたいなことをしてくれる。線香を1人1本ずつ手向けて冥福を祈る、ほんの数分の儀式。その後、焼きあがるまで1時間くらいかかるので、待合室で故人を偲んで思い出話に花が咲く。そして納骨。私の母は、自分の葬式はもう、これだけでいいんじゃないか、という。
葬式を簡素にしたい、墓は不要、と思っている人は多いから、それが死者の希望なら簡素化に異を唱える人は少ない。逆に、死者の望みを遺族の都合で無視することは批判される。ないがしろにされる死者に自分の末路を重ね合わせ、慄然とする人が少なくないのだろう。
つまり、人が亡くなってから「葬式なんて面倒じゃね?」といっても遅いんだ。病気の家族や親戚がいたら、何度も見舞って話をし、「大切なのは生前の交流だよ。死後のことは簡素でいい。葬式は通夜だけでいいよ。法事はしなくていいよ。墓は要らないよ」と宣言してくれるよう誘導しよう。
私が死んだときは一切そんなことはして欲しくない。直ぐに焼いてくれ!そして直ぐに土にまいてくれるように頼むよ。で、こんな私みたいな考え方する人って結構いるんじゃないだろうか?しかも最近では。ちょっと前までだと嫌々親戚付き合いや、葬式をしていたけど、そろそろみんなで取っ払おうぜ!この文化を!! みんなが徐々に短縮していき、追々はこんな制度辞めていけば、定着するからさ!
とりあえず、父と母が死んだときは、ちゃんと常識的にやってくれと言われているので素直にやりますが、心の中では "はてなマーク" が100個くら充満していて、意味ないのになぁと思いつつ、今回も祖母の葬式に行ってまいります。
まず自分が遺言を書くといいと思う。私は小学生のときに「自分の葬式は要らんなー」と思って、最初の遺言を書いた。
今はまた考えが変わって、死後のことなんか残された人が好きにすればいい、と。だから遺言はなし。で、「個人的には葬式も墓も不要と考えているが、遺族にとって必要ならどうぞご自由に」と日頃から公言している。ちゃんといっておかないと、「本当の望み」とやらを勝手に決め付けられてしまう。