「最初はビール」の話題。
最初は全員が一気に注文を出すので、「品目を絞りたい」と。これはわかる。
私が見てきた中だと、「ビール」と「ウーロン茶」に特権的地位を与えるのが世知みたいだね。
私が大学に入ったとき、直前に学生がアルコールで死ぬ事件があり、「お酒を飲みすぎてはいけない」「お酒の強要は絶対に禁止。運よく事故に至らなくとも強要の事実をもって処分する」といった指導があった。
その効果かどうか、研究室の先輩方は、「じゃあまずウーロン茶の人? 残りは、とりあえずビールでいい?」といように、まず下戸の人を確認する習慣を持っていた。
アルバイト先では、「とりあえずビールでいい? えっと、飲めない人は先にいってね。お互いのためなんで、ここで遠慮は禁止です~。あー、はい、はい、じゃあ4人はとりあえずウーロン茶でいい?」という感じ。
入社後は……。飲み会の場所に最初から全員揃っていることはまずないわけ。で、新メンバー(新入社員、中途入社、異動など)は早目に来ていることが多い。幹事はもちろん最初に来るのだから、自然、幹事と新人はお喋りしつつ時間を潰すことになる。よって、この段階で下戸かどうかの情報交換が行われる。
「了解、了解。うちはね、無理に飲ませるような人はいないから。安心していいよ。ただ、下戸です、ってことはアピールしてね。2~3回、飲み会を経験すれば、全員に伝わるんで、面倒でもそれはお願いします。あと……そうそう、最初はウーロン茶でいい? そう? よかった。たまにウーロン茶もダメな人いるんだよね」
そうして定刻が近づいたら、店員さんにビールとウーロン茶を適当な数量、注文。
たまに幹事の計算が合わず、ウーロン茶かビールのどちらかが多くなってしまうことがあるが、その場合、グラスをコツンと合わせる動作だけやってもらうことになっている。口つける必要はない。ビールが多い場合、グラスを空けないと次の注文ができないので、誰か適当な人が余ったビールを飲む。
いまどき、本当の本当に「強制」されることって、どれくらいあるだろう?
我が身を振り返るに、日頃さんざんマイノリティの悲哀を嘆いていてさえ、自分が多数派になると、「非常識なやつ、ウザイ」的な感情に捉われがち。多数派根性を批判し続けることも重要でしょうが、同時に、被害感情を育てて花咲かせたりしないことにも意を払うと、心の平穏を保てると思う。
人の杯にお酒を注ぐのが大好きな人は少なくない。それをダメだといわれたら悲しくなる。「酔っている」ことをエクスキューズにしている自分の緩い一面を曝け出すといった趣旨の場で、完全に素面の人がいるのは「ずるい」とか、もっと素朴に「不愉快だ」みたいな感情を持つ人がいるのだって、それはもう仕方ない。
でも、まともな想像力がある人なら、そんな気持ちを満たすために、人をアルコールで殺してしまって罪に問われたら嫌だな、損だな、と考える。断る側は、「何度も同じ説明をさせんなよ。俺は飲めないんだよ。勘弁してくれよ。ていうか、いい加減、こういうオヤジは死ねよ」とか思うんだけど、どちらも気持ちの問題なんでね。断る側の理で勧める側をやり込めたって胸にストンと落ちないんだな。
きちんと向き合って話せば、結論は、「どうしてもダメです。まだ死にたくありません」「残念だ」となる。で、性懲りもなく次の飲み会でもお酒を勧められたりするのだろうが、そこでカッとならずに、相手の気持ちも想像してほしい。相手の人は、自分に酒を勧める未練を断ち切れずにいる。だから「本当にダメ?(いや、ダメなのはわかってるんだけどさ……)」「ダメです」「残念だ」そんな「納得の儀式」をやりたいんだ。
1対1なら大胆に無理をいってくるような人でさえも、集団での飲み会なら、それなりに常識的な最終判断を下す。気分や空気のレベルでは「あーあ、この人が飲める人だったらなあ」という感じでも、まともな集団なら建前が勝つ。「そんなに私を殺したいんですか!」と怒れば、「そんなつもりでは……」となる。
世の中には本当の本当にアルコールを「強制」される集団もあるそうだが、少なくともそれは「ふつう」ではない。他に生きる場所はいくらでもあるので、縁を切って逃げた方がよい。あなたのこれまでの人生では「ふつう」だったかもしれないが、それはあなたが不運だからで、現代の日本はそれほどの地獄ではない。
酒に限らず、そりゃ「強制」の是非を問えば、みな否定する。が、しかし、この記事は「酒を飲めない自分が少しも不愉快にならない飲み会運営をしろ」という話にも読めるわけでね。
上の続きだけど、ここではもう、延々と自分の気持ちばっかり書いてる。
「誤解に基づいた意見は聞き飽きた。俺の反論を世界中の人が読んで、きちんと理解してから口を開いてくれたらいいのに」という記事なんだから、これはこれでいいのだろう。
ただ、実際には今後も何ら状況は変わらないわけであり、生活レベルにおいては、少し発想を変えたらイライラがだいぶ減るんじゃないか、と思うわけ。とりあえず「納得の儀式」という考え方を理解していただければ。
気持ちの問題をいうならば、いちばん苦労しているのは、「体質的にはバリバリ飲めるけど、ムラッ気があって、明確に分かれている飲みたい気分と飲みたくない気分が、当日にならなきゃわからない」みたいな人。本人にとっては(意外と)切実な問題なのに、ほとんど誰にも理解されない。
若い世代では晩酌の習慣が消えつつあり、飲酒の非日常化が進んでいる。今後、ひょっとしたら少しずつ、こういう人も大きな摩擦なしに世間を渡っていけるようになるのだろうか。
最近、職場関係の飲み会でも、「あっ、今日は休肝日なんで、よろしくっ!」「え~? だったら他の日でもよかったのに」「いやいや、一人の都合で日程を変える必要はないよ」みたいなやりとりを見ることが増えてきた。「え~?」だけでも許せない、という人もいるだろうけれども、そこはお互い様と思った方がいい。