バランスを取る、というのは難しい。難しいからこそ、人々の自由な判断に任せるのが一番いい。
「改革」はたいてい、総論賛成、各論反対になる。だから天下り式に総論のところで押し切ろうという声が出てくる。それが間違いのもとなんだと思う。
これから言葉を学ぶ人にとっては、それはルールが簡単な方がいいよ。だけど、既に使いこなしている人、過去の資産を未来に伝えたい人にとっては、簡略化どころかルールの変更自体が問題になる。わざわざ細かなニュアンスの違いなどを表現できるように「進化」させてきたんじゃないか、ということにもなる。
こういう話題を、政府が主導して「正しい」の基準を動かそう、なんてところから始めようとするからいけない。まずはプライベートで、次は自分が管理できる範囲で仕事など公的な性格を帯びた文書へ、簡単な新日本語の使用範囲を広げていけばいいはずです。
最初は社内で海外支店とやり取りする文書を新日本語化し、現地採用の職員に新日本語を習得させるあたりからはじめてはどうでしょう。
商売では使えないなら、国際NGOはどうかな。子どもの就学支援事業では、現地の子どもが支援者に向けて書く手紙を日本語に翻訳するスタッフが、いつも足りない。もともとかなり日本語の品質が低い。こうした場では、新日本語の需要は比較的高いのかもしれない。
まずは新日本語が切実に望まれている現場からはじめて、何らかの結果を出すことでしょう。有用性が明らかなら、自然と新日本語は普及し、いずれデファクトスタンダードとなります。そうなれば「簡略化が有用だとして、何をどの程度まで簡略化するのが適当か」についても、自ずと緩やかな基準が見えてくるはずです。
少しずつ、ビジネス文書の言葉が柔らかくなってきているじゃないですか。歴史の古い会社に勤めている方は、暇なときに古い資料などを見てみてほしいのだけれど。みんなが試行錯誤して「適切な言葉遣い」のアップデートに貢献しているのです。こんなの、かったるいな、と思うかもしれない。でも。
言語の人為的改造なんて誰も責任を取りようがない。しかも不可逆現象に近い。こういうのを天下り式にやるとすれば、よほど切羽詰った状況しか考えられないと私は思う。
私個人の意見としては、日本語のリストラは不必要だと考えている。日本語よりよほど話者が少なく、英語と親和性の低い言語を使っている民族だって、ちゃんと国際分業の一翼を担い経済成長を実現しているのだから、何の利益もない。