趣味Web 小説 2009-11-03

memo:私の習い事遍歴

1.

おめでとうございます!

少しずつ通っていた沖縄空手/古武術の道場で、ようやく武器術の方で茶帯になることができた。過去ログを検索してみると、入門してから既に4年半が経過していた。(2005年3月11日 琉球空手を始めるニンジャ) 4年半といったら、オリンピックもワールドカップも一回りしてさらにお釣りが来る期間だ。これを長いと見るか短いと見るかは人それぞれだろうけど、この道場は昇級に対してそれほど厳しくなかったので、僕と同時期に初めて僕より上にいった人、僕より後に始めたのに僕を抜いて、さらにやめてしまった人、色々な人がいた。

茶帯というのは黒帯のひとつ前の段階とのこと。以下、とくに関係ない話をつらつらと。

2.

私の場合、一番長く続いたのが絵画教室。小1から小6までの6年間。中学生になったら美術部に入ったので、教室をやめました。

中高の6年間を振り返って、「なるほど、絵画教室の先生はプロだったな」と。放任主義の部活動は、それはそれで楽しかったです。いくつか(10人に1人くらいがもらえるような)賞もいただきました。けれども、描いた絵の枚数自体はずいぶん減り、自分でも納得のいくような絵は僅かしかない。

絵画教室は週1ペースなのに、3ヶ月に2枚程度のペースで油絵が仕上がっていく。水彩なら1~2週で1枚。6年間でスケッチブックが3冊いっぱいになって、子どもを通わせた保護者は大満足。本人は割とゲッソリしがちなんだけど、数年経つと羞恥心が吹っ切れていい思い出になります。

今も実家や親戚の家に自分の絵が飾られているのですが、先生が小2~小3から油絵、それも静物を中心に描かせた意味がよくわかります。「ヘタでもそれなりに見える」わけですよ。あとデカい絵は邪魔になるから、キャンバスのサイズを8号以下に限ったのも合理的。

ひとつ忘れてた。最後に先生がチョチョイと30秒くらい、インヂゴを薄めたので仕上げの影をつけてくれるのがポイント。一瞬で魔法のように完成度が上がるので、私はいつも感動してました。これは選択制で、嫌なら断ることもできました。ちなみに、水彩に「仕上げ」はありません。

幼少時の情操教育の一環として通わせている保護者の方が多くて、私のように自分の意思で入門した子は少ないから、たいてい小学校低学年まででやめてしまう。保護者の興味が「お勉強」に移ってしまうわけ。

私はいきなり一人で教室に現れ、「こんにちは。ボク、ここで絵を描きたいです。えっと、これがお母さんからの手紙です」といったので、先生はビックリしたそう。後にも先にもそんな子は他にいないとか。まあ小学校に入学したばかりの子どもですからね。それはそうかもしれない。

母にいわせれば、「床屋に行くのと何が違うの」ということだったんだけれども。ふつうの小学1年生は、一人で床屋に行ったりもしないかな。

3.

2番目に長いのは英会話塾。小5~中2の4年間。私は習い事があまり好きではなく、自分から何かを習いたい、どこそこの塾に通いたいといったことはほとんどない。英会話塾も、両親が勧めるので、仕方なく「私の希望で通う」という形作りに協力したのでした。

*絵画教室は、「習う」つもりじゃなくて「描く」場がほしかったんですね。実際、とくに何かを教えてもらった記憶がない。いや、先生はいろいろ教えていたのでしょうが、とくに思い出せるものがない。

私は中高一貫校に通っていたので、中学英語は中2で修了。教室のカリキュラムが中学生対応までで区切りとなっていたので、そこでやめました。本部には高校生や社会人に対応したプログラムもあったそうですが、私の通っていた教室はその年齢層の客をつかまえられなかったので、講座を開設できなかったらしい。

他には水泳教室ですね。小3から小5くらいまで。

母は全く泳げない人で、私も水嫌い。でも、泳げない母は、それゆえ海へ行っても波打ち際に近付くことができないし、プールへ行っても水面を見下ろせない。上半身を乗り出したときに地震があったら水に落ちてしまう、という。つくづくカナヅチは不便だ、と。それで、水泳だけは強制的に教室へ通わせました。

当然、母は水着とか買ったことも着たこともない。家族向けの市民プールには、こういう泳がない(泳げない)付き添いの人のための場所があって、母は長袖長ズボンに日傘を差し、サングラスをかけて子どもたちを遠くから眺めていました。水泳教室にはそういう場所がないので、母が見に来たことはありません。

今では学校にプールがないなんて例外でしょうが、半世紀前の日本には、自然の川で水泳の授業を行うため、親が許可しない場合は水泳の授業をサボれる、という状況があったわけです。母方の祖母は近所の川を汚いと認識しており、娘がそこで泳ぐことを決して許しませんでした。ちなみに伯父は勝手に泳いでいました。

ともかくそういうわけで、私は水泳教室へ通い、人の数倍の時間をかけてゆっくり進級し、どうにか背泳ぎができるようになり、クロールの息継ぎができないままギブアップしました。

ビート板なしでは泳げないとなると、いざというときビート板なんか持っているわけがないんだからダメだ、と。それで苦労したんですけど、背泳ぎができれば、他人は助けられないけど、自分は生き残れるだろう、と。それで勘弁してもらえました。まあ、つらかったけど、それなりに有意義だったとは思う。

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