設楽統さんと日村勇紀さんによるバナナマンというお笑いコンビがあって、ラジオ番組をやっているのだという。その番組には放送作家のオークラさん、永井さん、及川さんが関わっていて、オークラさんは永井さんと及川さんの先輩であり上司でもあるらしい。
ちなみに、放送作家というのは、番組の構成を考えて、トークや企画の話題を提供する仕事なのだそうです。ラジオ番組ではしばしば面白い投稿(葉書やメール)を募集していますが、そうそう都合よく投稿があるわけではないので、放送作家が書くことも珍しくないらしい。
芸人さんといっても、ただ連れてきて椅子に座らせておいても、とくに面白くはない。芸人さんというのは、漫才にせよコントにせよ、あるいは落語や手品でも、事前によく考えて練習を重ねて数分間のステージを面白くすることの専門家なのであって、必ずしも存在自体が面白いわけじゃない。
しかしそれでは毎週30分とか1時間とかの新しい内容の番組は作れないわけだから、どうにかして芸人さんが素直に思ったことを喋っていくだけで面白くなりそうな話題とか、状況とか、そういったものを放送作家が案出することになるのだそうです。
あるとき、日村さんが永井さんと及川さんを3時間も待たせた挙句、さっさと帰ってしまった
→永井さんがオークラさんにこの話をした
→オークラさんがラジオ番組内の「ひどい人間にビンタする」というコーナーのネタにした
→日村さんが、プライベートの出来事を公的な場で復讐するのはよくない、と怒る
→「先輩にチクった永井がいちばん悪い」「それはおかしい」という議論
→「勝手にラジオ番組のネタにしたオークラがいちばん悪い」「それはおかしい」という議論
→スタッフ7人の投票は満票で「日村が悪い」
→日村さんがビンタされる
芸人さんには「いじられ役」にはまっているタイプの方がいて、だいたいその人がひどい目に遭うと、視聴者の溜飲が下がって「ああ、面白かった」となるわけです。面白ければまた次の仕事がきたり、ギャラが上がったりする。ひどい目に遭うといっても、見返りがあるからいいんだ、ということになっているのです。
日村さんは、そうしたいじられ役の一人。でも、おそらく日村さんは、もともとは漫才が好きだったりして芸人を志したのであって、放送作家の匙加減ひとつでプライベートまで切り売りさせられるのは、本意ではないのでしょう。そのあたりの気持ちを酌んでくれ、と日村さんはいっていると思う。
こういうことって、自分にもときどきあるな、と考えます。「嫌ならやめろ」と一刀両断されると、「そういうことじゃないんだよ」といいたくなる。例えば、こんな感じ。
「やりたくないとはいってない。やる。だけど、気持ちはわかってほしい」
「わかったってわかんなくたって、やることは同じだろう」
「同じじゃないよ」
そう、「同じじゃない」と思うんです。リンク先記事で日村さんが怒っているのは、私的な場での出来事が、いちいち公の仕事のネタにされてしまう。それも不意打ちでやられる。そんな毎日に、俺が傷付いていないとでも思っているのか。それを理解してくれ、と。もっともな話だと思う。
私は、日村さんに迷惑をかけられた永井さんが、先輩のオークラさんに、「こないだこんなことがあって……」と愚痴ったり、あるいは「今では笑い話になったことだけど」と話をするのは、よく理解できます。これを「陰口はよくない」と断じるのは、無理があると思う。
とすると問題は、オークラさんがぶっつけ本番でラジオのネタにこの話題を持ち出したあたり。あらかじめ日村さんに「この話題をラジオの構成に取り入れていいですか」と相談できなかったのでしょうか。ようは納得の問題で、事前に正面から相談されたら「いじって盛り上げてくれていいよ」となったでしょう。
生の反応、素の言葉こそが面白いんだ、というような風潮に乗っかって、「だからいじられ役の芸人さんの気持ちなんか二の次でいい」のか。視聴者は大切ですが、番組の作り手が無制限につらく悲しい思いをするほどの価値はないと私は思う。
以前から様々な話題について繰り返し書いていることですが、私は、プロだからいいんだ、政治家だからいいんだ、芸人だからいいんだ、公務員なんだから当然だ、そういった意見にはどれも反対です。自分はしがない庶民だから好き勝手にやるんだ、でも社会的地位のある連中は別だ、という類の意見には賛成しない。
まず自分が立派に振舞って、「みなさんも一緒に頑張ってみませんか」と、そういうべきだと思う。
それに加えて、誰に何が可能かを見極める観察眼を養って、努力目標と必達水準の区別をしなければならない。ブラック企業に適応した人が不幸を再生産してしまうのは、自分の「成功体験」を一般化して、いま目の前で七転八倒している人の苦しみを等閑視してしまうからです。
この放送全体が台本通りの進行だ、という意見がいくつも見受けられますが、私が読んだ芸人、放送作家、製作、演出といった方々の本の記述から考えるに、「それはない」と思う。事前にモノの準備が必要なコントと違い、フリートークは本当にフリートークで、ネタは用意されるが台本はないのがふつうだそうなので。
あと、ことここに至っても「プロ意識に欠ける」式の批判が少なくない。そうやって他人に非人間的な仕事への隷属を求めるから、自分もまた血を吐くことになるんじゃないのか。
そもそも放送作家が打ち合わせなしでネタをぶつけたのは、視聴者が「素の反応」を求めているから。オークラさんは視聴者の意を汲んで「笑いのセオリー」を貫いているのであって、オークラさんが一人反省すれば、職を失うわけです。
スタッフが全員「日村が悪い」としたのは、番組にオチをつける意図が第一でしょうが、視聴者が欲望に歯止めをかけない限り、「反省」した人が理不尽にも割を食う現実を知っているから、という要素も皆無ではないと思う。
生きるか死ぬかの選択だからオークラさんは頑なにならざるをえない。日村さんも、結局はビンタを受け入れるしかない。関係者を一望するに、いちばん失うものが少ないのは視聴者でしょう。「素の反応」は面白いかもしれないけれど、それを我慢することにどれだけの不都合があるのか、という。
それなのに、「この放送は面白くない」「ドン引き」で片付けちゃう。なんて冷たいんだろう。個人的には、ラジオ後のPodcast(2009年3月16日)は、軽妙な掛け合いになっていて面白いです。これでも「ドン引き」っていう? というのが正直なところ。