趣味Web 小説 2010-01-27

意外なものの歴史が浅い

大学の教養系科目では、毎回のように小文を書かされたんだけれども、それについて先生がどんなことを感じたり考えたりしたのかを聞く機会はあまりなかった。たまに次の講義で少し触れられるくらいで。だから、こうした試みは大歓迎。

よくテレビドラマで「このドラマはフィクションであり、実在の人物・団体等とは一切関係がありません」みたいなことわりがきを流しているが、あれが必要なら占いや性格診断には「この占いは科学的根拠がありません。あくまで娯楽としてお楽しみください」みたいなものが必要だろう。

山口さんの問いかけに対し、大半の学生は現状肯定的な意見を返したのだという。

学生の意見に従うなら、ドラマに「この作品はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係がありません」といった注釈をつける必要もないように思う。ちなみに、この注釈は1972年の特撮テレビドラマ『超人バロム・1』放映時に放送局へ寄せられた抗議への対応がはじまりだという。40年足らずの歴史か……。

……あれっ!? とすると、「この作品はフィクションであり(以下略)」という注釈が普及しているのは日本だけなのか? 海外作品でも見かけたような気がするのは、気のせいかな。気になって30分くらい調べてみたんだけれども、よくわからなかった。

ちなみに映画のエンド・クレジット(英語では closing credits というが一般的だそうです)が長くなった詳しい経緯についても興味があるのだけれど、「1970年代にスタッフらの組合の活動が奏功した結果である」という以上のことがわからない。どうしてテレビ放映時にはクレジットをカットしていいのか、とか、多くの疑問が解消されないままになっている。

長く視聴率の問題でエンド・クレジットの短かった米国のドラマなどでも、90年代末から組合の意見が通り始めて、次第に長くなりつつあるという。Wikipedia英語版には、しかつめらしく、近年は画面を分割して視聴者を楽しませる映像とともにクレジットを流すようになっている、なんて説明がある。

そんなの日本のテレビドラマでは80年代から……と思って古い作品を見てみると、なるほど、長いクレジットは冒頭に近いあたりに配されていて、ラストはスパッと終っている。あるいは、クレジットを末尾に配する場合、長くない。『古畑任三郎』のように長いエンド・クレジットが長い作品は、この件を気にし始めてからでは、今のところ90年代以降の作品しか発見できていません。

「意外なものの歴史が浅いんだなあ」と。まあ、私の調べ方が浅いだけで、実際は長い歴史があるのかもしれないけど。

こういうのも、調べていくと今ひとつ真実が掴めない。「どこまで本当かなあ?」という疑問はある。ただ、こうした視点を持つことは大切だと思う。

新聞や本を全国民的に読むようになったのは高度成長期だ、とか。昔の人を引き合いに出す議論が出てきたら、だいたい疑ってかかった方がいい。客観的な観察では「偶然」以上でも以下でもない占いを「当たる」と思うのは「認知の偏り」のためなんだけれども、能力の高い人は、同種の人に囲まれて成長することが多いから、だんだん世間が見えてくると「社会が劣化した」と思いやすい。

そういうことを周囲の人に力説してきた私が、いま「えっ、そんなに歴史が浅かったの?」なんて驚いている。人間の脳の仕組みには根本的に欠陥があるのだと思う。(……これもまた、ろくに根拠のない決め付け)

余談

最近、驚いたのが「ハートフルは和製英語」という事実。英語に親しんでいる人なら皮膚感覚でわかることらしいのだが……。ちなみに、英語では hearty というのだそう。

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