少しわからないことがある。マスコミでは政治家の指導力指導力とうるさいが、「指導力」っていったい何なんだろうと最近思う。マスコミがイメージする指導力とはただ単に人気が高い政治家とかそんな感じだが、それがどう指導力と結びつくのかさっぱりわからない。
これは簡単な話。ようするに、いま国民は「政治の世界では国民の求める政策が実現されていない」と認識しているわけ。
マスコミも商売なので、消費者の見解を代弁しようと頑張っていると判断するのが妥当。ネット世論との意識のズレは、読者層、CMの対象層とネットで発言する層のズレによる。ネットで政治・経済に関心を持って発言している人はテレビニュースの視聴者より断然少ないので、ブロゴスフィアの多数意見の方が偏っている。
そういうわけだから、「指導力のある政治家」が「人気のある政治家」なのは当たり前の話だ。にもかかわらず、政治家が「指導力を発揮する」ことが難しいのは、世論の求める政策に賛成しない政治家が多いからだ。
どうして投票で選ばれたはずの政治家の少なからずが、世論を代弁しないのか。それは有権者自身が政策より政党・候補者への信頼感を重視して投票しているからだろう。つまり究極的には、有権者は政策を政治家の専門知に委ねている。だから有権者の怒りは、ある程度、抽象化して理解した方がよいのではないだろうか。
「政治や経済の詳しいことは、自分にはわからない。わからないが、方向性が間違っていないか?」と。端的には、将来への不安が増大するとき、有権者は政治家を批判する。
だいたい、この3つが大きな不安だと思う。まず大抵の政策は財政支出を伴うので、財政不安に結びつく。お金の流れがよく見える政策は、叩かれやすい。少子化対策の必要性は共有されているが、子ども手当てはダメで、仕事と子育ての両立を支援するさまざまな(個別の必要経費がよくわからない)施策が人気を集める。雇用対策も同じで、公共事業はNGで、有給休暇取得の義務化などが支持される。
おそらく、とくに財政支出に関して、政治家の「専門知」と国民の「不安」がぶつかりやすいのだと思う。政治家は、すぐに予算を増やす政策を口にする。それで助かるのは一部の人で、大多数は財政不安を募らせる。定額給付金への反発は、「不要」な給付の利益より、財政悪化の不安が勝った結果だ。それでもみんなが受け取ったのは、「どうせ政治家が浪費するなら自分でつかう方がマシ」と判断したためと考えれば納得がいく。
道路公団の民営化をはじめ、小泉純一郎政権の「官から民へ」が支持されたのは、それが「財政不安を解消する方向の政策」だと国民の目には映ったからだ、と私は考えている。
とはいえ、国民が飛びつく個々の施策を実施すること自体は、あまり意味がないと思う。小泉政権は、りそな救済や量的緩和をはじめ、とくに国民の支持のない政策をいろいろやった。そうして景気が底を脱したら、「不良債権処理を頑張った。エライ」なんて評価された。それは結果として実現できたことなんだけど……という反論はせず、素直に政権が進めてきた「構造改革」の成果として、誇ってみせた。
ともかく国民は、膠着状態や悪い雰囲気を突き抜けて、将来不安を縮減してほしいわけだ。しかし最終的に不安を解消できる政策も、短期的に不安をガツンと増大するのでは、国民の強烈な反発を喰らう。小泉さんは、世論の不安を刺激しない政策を選ぶ眼を持っていた。それで従来型の政策を打ち出す議員と喧嘩になった。
年金の持続可能性を上げる施策にせよ、雇用の確保にせよ、それ自体は誰もが賛成すること。小泉さんは結局、個別具体的な政策において「古い政策論」と戦っていたのではないか。そして国民は小泉さんを支持した。「不安」に支配された時代には、「不安」とうまくつきあう政策が必要とされている。