「孤独死は怖い! でもルームシェアはもっと嫌!」な日本人(2010-02-03)にも書いたとおり、私は、孤独死なんてのは本人の自由な選択の結果という側面が一番大きいと考えている。
そりゃもちろん、満足はしていない人が多いのでしょうよ。「もっと子どもが親孝行だったらなあ」「嫁や婿が自分を苛立たせないキャラクターだったらなあ」「結婚したかった」「こんなに貧しくなかったら……」「全部、酒のせい。俺は悪くない」とか何とか、言い分はいろいろあると思う。
それでも、「孤独死こそが最悪であり、その回避は人生の最優先事項なのである」とすれば、「ルームシェアすればいいじゃない」で終了。その簡単な解決策を実施できないのは、もっと他に大切にしていることがあるからであって、ようするに「そういう水準」ではあるものの、自らの意思で孤独死を選択しているのだ。
私も夢見て来た個人の自由を追い求めた一つの結果が「無縁死」「行旅死亡人」だとすると考えさせられた。
現に孤独死を恐れる人が世間にたくさんいる以上、有効な対策があれば実施すべきだが、この手の「人々が自由な選択を行った結果、生じた問題」は、解決が非常に難しい。ああすればいい、こうすればいい、という解決策はすぐに出せるが、「いくら孤独死が怖いといっても、それは嫌です」ということになる。
アパートの隣の部屋の住人の顔も知らない都会の寂しさ、なんてことがいわれるけれども、「隣近所の人にプライベートへ踏み込まれたくない」というお互いの気持ちが核にあるのだから、基本的には解決不能。こっちは近所のことを把握しておきたいけれど、自分の情報を開示するのは絶対に嫌だからね! 論理エラー。
それでも。金持ちの場合、(スタッフの水準や入所者の階層などについて)自分の納得できる老人ホームを選択する、という形で孤独死を避けることができる。だから貧乏な老人でも入れる老人ホームを……と、上の水準に全員を引き上げようとすると、お金が足りない。そんな「過剰な福祉」に税金を湯水のごとく使われてたまるか、と喧嘩になる。
では行政にできることは何もないか、というと、意外とそうでもなさそう。現在、自由の結果貧乏人がルームシェアを募っても、おそらく応募者がいない。老人ホームという概念は普及したが、長屋という概念は、逆に滅びてしまった。しかし、親子同居が減少し、生涯未婚率が上昇、離婚も増加したいまこそ、シェアハウスやルームシェアという概念を世に広報していくべき時期ではないだろうか。
概念の広報と同時に、環境整備も行う必要がある。「事故物件にしたくないから、死にそうな老人はお断り」という不動産業者を規制・指導し、そもそも「事故物件」などという不合理な概念の撲滅キャンペーンを張っていくことだ。
逆に行政が関わることの不安は、老人向けシェアハウスに、補助金と引き換えに、やたら規制をかけてしまいそうなこと。バリアフリーでなければならない、とか何とか。シェアハウスと老人ホームの違いは、管理者をおかず、各々が自己責任で生活を営むこと。設備の水準と価格の兼ね合いは市場に任せるべきだ。
昔から文通だけの縁というペンフレンドなんてのがあった。