趣味Web 小説 2010-06-12

私は「本」が好き? 嫌い?

1.

「讀む事によつて初めて本は意義を發揮する」と云ふのは本を讀まない人にとつての常識だけれども、實際は、讀まない本でも「ある」事は大變に重要な事だ。と云ふのは、あれば何時でも情報を取出せるからだ。本を集めてとつておく事は、情報をとつておく事にほかならない。本があり、情報があれば、何時でも必要な時に參照出來る。例へば、論爭をする時には、參照する本がなければならない。

讀まなくても、良い本がある、と云ふ事は、安心感に繋がるし、家の中の雰圍氣を變へる事にもなる。本が無い生活は、すつきりして氣樂だらう。けれども、本がある事で、家の中の氛圍氣は大きく變る。「それが堪らなく嫌だ」と云ふので「捨てる」「賣る」と云ふ選擇肢を選ぶのだらうけれども、それは要するに「本が嫌ひだ」と云ふ事を意味する。

「本をばらしても平氣」と云ふのも「本嫌ひ」のうちに入ると思ふ。「形」もまた「意味を持つ」のだけれども、今の人は「中身」だけにしか「意味を見出す」事をしない。

「本嫌い」という言葉には反発がある。「それほど本が好きではない」といった言い方なら、素直にうなずけるのだけれども。

私という人間が、現在の通貨価値で生涯に1億円とか2億円とか稼ぐような生き方をして、両親の遺産を権利分きっちり受け取るんだ、ということなら、ざっと3万冊くらいの蔵書を持てるはず。以前、そういう試算をしたことがある。本をたくさん持てるものなら持ちたい。

2.

いや、現状でも5000冊くらい本を持つことは可能だ。可能だが、他に優先順位の高いことがあって、蔵書を抑制してきたわけだ。

この30年余りで、私は7回も引越しをしている。そのたび、ノイローゼ気味になって、自分の持ち物をバカスカ手放している。モノを手放すのは一種の自傷行為であり、精神的に疲労する。そして麻痺した感覚で処分を加速する、というパターンになる。

じゃあ「引越しが嫌だから仕事を辞めます」とか、「引っ越さないことを最優先にして仕事を選びます」とはならないのか? ならない。理由は自分でもわからない。

ここでは、本が家にたくさんあること自体が問題なのではなく、「いずれ引越しがあって、そのときにつらい思いをすることになるだろう」と考えてしまうのが問題。そんなもの、そのときに苦労すればいいので、今から気に病むことはないのだが、私は結局、強迫観念に負けて、読み終わった本はどんどん手放していく。

あとワンルームの部屋に暮らしていたときは、地震も怖かった。これは本の存在自体への恐怖。本に埋もれて死ぬイメージが、何度追い払っても、ふとした拍子にまた脳内を埋め尽くしていく。転倒防止器具では、安心を得られなかった。本棚そのものが倒れなくても、本の重さだけで死ねると思う。真実は不明だが、イメージでは死んでいる。いずれ死ぬのは構わないけど、まだ両親が生きているから、今はダメ。

私の伯父の一人は、定年退職後、蔵書を爆発的に増加させて図書館の分館並みにした。もう書斎で死んでも後顧の憂いはないという。私の場合、経済的に何万冊も本を持つ余裕はないが、それでも伯父のように状況が整えば、持てるだけの本を持ちたい、とは思う。

3.

奧附をながめる、なんて事すらも、「本嫌ひ」の人は、しないのだらうと思ふ。書誌情報も必要とするなら、本をばらしてデータ化し、データだけとつておいて、紙は捨ててしまふ、なんて事は、出來なくなる。

必要性の度合いの問題。コストとメリットを勘案して、何かを諦めることは、誰にもあると思う。奥付を眺めることは「ある」し、書誌情報だって「ある方がいい」。紙の手触りだって、それは魅力的ですよ。でも、それを維持するためにどれだけのコストを負担できるのか、それが問題なわけで。

「決断」した人には、自分の中の迷いを吹き飛ばしたいという気持ちがあるから、電子化のメリットを強調する意見を述べがちなのは、致し方ないことだと思う。時間とか手間とか気力とかいろいろな都合があって、気持ちを全て言葉にすることは不可能なのだから、「書いていない=そういう気持ちがない」と決め付けるのは揚げ足取りに近い。

何も諦めない人だけが「本好き」で、何かを諦めた人は即ち「本嫌い」だというのは、辛らつ過ぎないか。もし本の所有に何らかのデメリットを見出すこと自体が「本嫌い」の証拠、といったご意見なら、そういう言葉の選択も理解はできるけれども。

もちろん、素朴に「本嫌い」で、紙とかインクなんて虫唾が走る、という人もいるかもしれないけれども、それが本の電子化を進める人の多数派だと予想する感覚が、私にはよくわからない。

……と書いてからネットで検索してみると、意外と、本の電子化をあっけらかんと肯定しているというか、悩んだ感じのしない文章を書いている人がいるのはたしか。でも、私はやっぱりそこに、読み手の妄想かもしれないけれど、書き手の「強がり」を見る。そうは書かれていないけれども、裁断された本の写真に、撮影者の一抹の悲しみを感じる。真実は、文章から素直に受け取れる内容そのものなのかもしれないけれど。

私の昨日の文章に「蔵書なんか」というフレーズが出てくるのだけれども、ここには一種の気負いがあって、強い言葉を前面に押し出しているんですね。いやだから、そうまでして蔵書を減らす必要がどこにあるんだ、と。そりゃ、ないわけですよ。ないんですが、私の場合、病的に不安が盛り上がるとき、物を持ち続けることへの不安が、物を失うことへの不安に勝るのです。そういう、きわめて個人的な事情が背景にある。

ゴチャゴチャいってるけど、総合的には「本嫌い」で合っているのか……? 私としては、首肯できない。それは、どうしても。だって、ふだんは蔵書を増やす方向にあって、嬉々として本棚を買い増したりしてるわけで。本を減らすときの方が変なんだと思う。

4.

現状、電子化した本なんて読みにくい。少なくとも元の本より読みやすいということはまずないと思う。CDなどと違って、本はそれ自体が「情報再生機」でもあって、紙面は個別の再生環境(=本の装丁など)に最適化されている。だから、紙面のデータを抜き出して、汎用の再生機に突っ込んだら読みにくくなるのは当然の話。

iPhoneとかで読む人は、電子データをOCRにかけてテキスト化し、それを画面に合わせたレイアウトに割り付けて読むのだとか。そこまでやるなら未読本の電子化も理解できるけれど、手間暇の点で相当に高コストだから、「そんなに本を持ち歩くのってつらいですか?」という素朴な疑問が。

あと、既読本の場合は少し話が違ってきて、電子化して検索に引っかかるようにしておいた方が、結局は読み直す頻度が上昇するのではないか。資料的な本とか、何かのときに参照するという使い方をするなら、やっぱり書棚にあるより電子化されていると好都合なことが多い。

とはいえ、「それって、本を裁断しちゃうほどのメリットなの?」という疑問は拭えない。私自身は金銭的な事情なども勘案した上で「苦渋の選択」として蔵書を減らすことにしてきたのだけれども、結局、そういう結論に至るということは、さしたる「本好き」ではないのだな、とは思う。

追記:

なるほど。これは納得。

これくらい厳しい「本」の定義を掲げるなら、ほとんどの人は蔵書の置き場には困りませんね。また、娯楽や暇つぶしに読む本、あるいは野嵜さんが「読む価値がない」とみなす本を、個人の便宜のために「自炊」して電子化するのに、何を悩む必要もない。それによって損なわれる文化的な価値は存在しないので。

私の場合は、せいぜい書棚を1mも確保しておけばお釣りがきそう。私が「本」を手にする、持とうとするペースから考えて、まあそんなものでしょうね。

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