趣味Web 小説 2010-06-15

memo:記事を書くひねくれた動機

先ほど、はやぶさに関連する記事をひとつ書いた。

単純に関心の大きさだけをいえば、例えば、大統領の失脚を期に中央政府の統制力が弱まった中央アジアのキルギスで、少数派のウズベク人が多数派のキルギス人に攻撃され、多くの死傷者と膨大な難民が生じている問題などの方が、私にとっては、はやぶさより重要だ。しかし私には、とくに記事を書くような意見がないので、何も書かないというか、書けない。

私は瑣末な話題についてごちゃごちゃ物をいうことが多いが、それは、その話題が私にとって非常に重要だから、ではなく、「その話題なら書きたいことがあるから」という理由であることが多い。私は面倒くさがりなので、誰かと同じ意見なら、わざわざ自分が口を開く理由がない。自分が何か意見を持っていて、また自分の観測範囲において自分と同じ意見と述べている人がいない、という状況がなければ、わたしはなかなか記事を書けない。

誰かの意見に賛成なら、ただそう述べればいいじゃないか。その通りだとは思うが、私はきわめてものぐさなので、はてブするのも面倒に感じる。twitterのアカウントを再始動してみたが、結局、アクセスするのも面倒に感じ、放置している。

私は多くの場面で少数派に属する人間だから、自分の意見を世間の多数派とすべく頑張ろうとする意欲は、何度も何度もへし折られてきた。だから、少数派同士が「同意します!」とかいいあうことに、「面倒の壁」を乗り越えるだけの意義を感じないことが多い。

しかし少数派が黙らされることには強い抵抗感があるし、少数派の存在自体が無視されることにも耐え難いものがある。これは、いまの私に残された、数少ない「物をいう大きな動機」のひとつだ。それゆえ、自分にとって重要でない話題でも、自分と同じようなことを書いてる人がいない状況では、意見を書きたくなる。

つまり、話題自体ではなく、「自分の思いついた少数派の意見」が世の中に見当たらないこと、を問題としているわけだ。だから、ときには、勝手に少数意見を想像(創造)して記事を書くことさえある。

「私自身の考えとは異なるが、こういう意見もありうるだろう。それなのに、こういう意見が見当たらないのは何故だ?」ということなのだが、「自分の意見でもないのに、何を熱くなってるの?」とか、「本当はあなたがそういう意見を持っているんでしょ?」といった反応をいただくことになりがち。

相当にひねくれた立場なので、共感はされないだろうが、何とか理解はしていただきたいのだが。なかなか難しい。

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