働かずに遊び暮らすのは、人類の夢ではなかったか。失業率が上がったとはいっても、「失業=飢え死に」ではないのだから、そもそもその人が働く必要はなかったともいえよう。仕事が減って失業率が上がることの何が問題なのか? ……というような話だと理解した。
端的に回答するなら、失業者とは「仕事がほしいのに仕事がない人」のことであり、無職とイコールではない。ほしいものが手に入らないのは不幸だから、失業者が増えて失業率が上がることは、問題である。
年金暮らしにそこそこ満足して、毎日ぶらぶらしている老人などは、賃金労働に就かずに当人の納得のいく水準の衣食住を確保している。これなどは、幸せな無職ではないだろうか。ぶらぶらしているのが好きな老人に「仕事を用意したから働いてくれ」といっても、いい顔はされまい。だが、求職中の失業者や、就職の希望が持てる経済環境になったら求職を再開しようと考えている潜在的失業者は、仕事がほしいのである。
「社会が必要とする仕事が減ったなら、働かなくてもいいじゃない。生活保護があるから死なないよ」という言葉に、失業者も勤労者も同意するなら、いい。しかし現実には、たいていの人は生活保護水準では満足できないし、勤労者も所得の再分配に厳しい条件をつけたいと思っている。
例えば、日本人が所得の一部を最貧国に分配すれば、日本人全員と同じくらいの人数を「働かずに暮らせる」ようにすることは可能だ(注:現状、社会を成り立たせるためには、特定の社会の全員を無業者にすることはできない)。生活水準を据え置くということが可能ならば、これは持続可能な仕組みだ。
実際、貧しい国の子どもたちへの支援は、子どもたちに賃金労働をさせないことを目標のひとつとしており、大きな成果をあげてきた。同様に老人や病人を見捨てないための支援も、地球に無業者を増やすことに貢献してきたといえよう。現状程度の国際支援でも、かなりの成果が出ている。
だが、このような発想を延長したところで、労働力率を4割にするのが精々ではないだろうか。日本人の経済力をもってすれば、最貧国の健康な大人たちも最大限、仕事をさせずにおくことが可能だ。でも、それをよしとする意見は聞かない。
ここで仮に、「1人の労働者が10人の無業者の命を支える」ことが物理的には可能になったとしよう。しかしその実践には、なお壁が立ちはだかる。稼ぎの大半を「働かざる者」を生かすために消尽しなければならない労働者を納得させる「物語」がない。多くの人は、己の労働の報酬に対して独占的な権利を感得する。それを他人に分け与えるなら、強力な理由がほしい。
現代の先進諸国では、賃金労働者は社会の構成員の6割程度となっている。子どもは働かない。老人も働かない。「家族だから、社会的弱者だから、みんなでその命を支えるのだ」という物語で、これまではやってきた。多産社会では労働力率4割ということも珍しくない。
しかし、2割、1割となると、これは人類未踏の領域だろう。従来、技術の進歩は生産力の増強に主に貢献し、社会全体が必要とするマンパワーの圧縮には相対的に小さな貢献しかしてこなかった。今後もその傾向は変わるまい。その先にも、分配の理由付けという課題がある。21世紀中には現実味のない話だとは思う。