趣味Web 小説 2010-08-02

納得できる医療のために

1.

向井万起男さんという宇宙飛行士の夫として著名な病理医の診断が問われているケース。向井さんが患者の子宮腫瘍を診たのは2003年。結論は「良性の偽肉腫」で、学会発表も行われたそう。結果的にこれは誤診で、2004年の末に患者は亡くなっている。問題は、向井さんが「もし患者が自分の妻なら子宮を摘出していた」という意味の発言したこと。遺族はこの発言をつかまえて、不作為の罪を訴えた。現在も係争中。

リンク先の記事は「医療に不確実性は付き物であって、当時26歳だった患者と、既に50歳を超えた向井医師の妻とでは、子宮摘出の重みが違う。良性の偽肉腫の可能性が高いと診断した以上は、子宮温存の道を選択したことが罪に問われるのはおかしい」とする。

2.

しかし記事中に引用された病院側の反論は、「転移は全く見られず悪性を疑わせる事情はなかった」ので死亡は「全く予想外」というものなのだそうだ。私の感覚だと、「さっきと話が違うじゃないか」ということになる。病理医の意見と主治医の意見が完全に一致するとは限らない、と増田さんはいう。それはそういうものだろう。が、私が気になるのは、ここで病院側が「悪性という可能性もゼロではないと思っていた」とは主張していないことだ。

増田さんはリスクの存在を前提として、子宮温存と生命リスクのバランスは人それぞれじゃありませんか、と問いかけていたのではなかったか。そして、医療にリスクは付き物なのだから云々、と話を展開している。ところが、実際の病院側の主張は、ガンによる死は「全く予想外」というものだ。矛盾しているではないか。

ベストセラー小説『白い巨塔』の裁判も、同様の点で引っかかりを覚えた。財前医師は、自分の判断に揺ぎ無い自信を持っていた。事前には予見のできない病状のために患者は死に至ったのである、と主張し、それが崩れて敗訴する。

医療に100%はない。しかし、僅かなリスクを恐れて患者を検査漬けにすれば、医療はパンクしてしまう。患者も疲弊するだろう。だから一定のリスクは受容してもらうしかない。……そのような考え方が、じつは背景にあるのだとしても、財前医師が前面に押し出した主張は「私の診断に過失はなかった。どこの名医に頼んでも私と同様の結論に至ったはずだ」であった。

3.

もし私が患者の家族だとして、「まさか、ガンじゃないですよね?」と問うて「違いますよ。ガンという可能性は全く考えていません」と主治医に説明されたなら、子宮摘出なんて考えもしない。それから2年も経たずにガンで死んでしまい、「正直、ガンの可能性はあった」といわれたら、怒りが爆発して当然ではないか。

「ガンの可能性は、かなり低いですが、決してゼロではありません」「でも、かなり高い確率でガンではない?」「はい。ですから、閉経後なら念のために摘出してしまうのがふつうですが、26歳くらいですと、経過を見るのが一般的です」といったやりとりだったならば、万が一の場合にも、「赤ちゃんの可能性を残したくて、リスクを取ったのだ」と納得もできる。

患者が完璧を求めるから、どうしても医師も「大丈夫ですよ」といいたくなる。そういうことはあると思う。そして医療の世界にも、99.99%くらいの「大丈夫」は実際に存在するのだろうし、その場合、「リスクがゼロではない」ことを強調することが、むしろ誤解を生むという話は、私だって理解できる。

だけど、生きるか死ぬかの話なのである。90%を100%といわれてはたまらない。治療せずに放っておいたら10人に1人は死んでしまうのだ。99%だって、100%と説明されたら「騙された」と感じるだろう。患者や家族は医療に100%を求めがちだが、「実際には100%ではない」なら、そのことをきちんと説明してほしいという思いは、より強いのではないだろうか。

繰り返すが、病院側の説明は、ガンは「全く予想外」だ。それなのに「50歳代の女性なら子宮を摘出する」という判断になるものだろうか。私はここに矛盾を感じる。「主治医がリスクの認識を誤った or 説明を怠った」あるいは「病理医が主治医に正確な報告をしていなかった」と考えるのが、自然ではないだろうか。

4.

結果論で病院が責められている、という側面は否定しない。娘が死んだのは病院の不作為のせいだ、という提訴内容の根幹に、私は同意しない。しかし遺族の怒りには正当性があると思う。怒りの原因を直接に問うことができないから、死の責任を問うているとするならば、全体として一定の支持をしたい。

診断・治療は統計的事実にのっとり行われるという。であれば、「全く予想していなかった」なんて医師には簡単にいってほしくない。少なくとも「50歳代の女性なら子宮を摘出する」という状況で「全く」なんて言い方をするのは、おかしいと思う。これは納得の問題だ。医師の説明が不十分だったために、主体的な選択ができないまま命を絶たれた……私には、そう見える。だから遺族の怒りに共感する。

これは民事の裁判だ。この件について、医療崩壊をチラつかせて提訴自体を否定する意見には与しない。ただし、「病院には民事上の罪があって、損害賠償をするのが正しい」とも思わない。きちんとリスクが説明されても、結果は変わらなかったろう。それでも。

5.

向井先生が有名であるが故にたまたまニュースになってるだけで、こんな話日本中にゴロゴロ転がってるんだよ。医療に幻想を抱き、結果だけを求める国民と、それを煽るマスコミが癌であることは間違いないけれど、家族を失う悲しみ、悔しさを怒りにすり替えて医療側を叩くのは、もういい加減やめにしよう、ホント・・・

裁判の構図が、根本的に筋違いだ、という批判は分かる。事実として、良性の可能性が高かったのだろう。何でも手術すればいいというものではない。このようなケースで患者の死について病理医が責任を取らされたら堪らない。なり手がいなくなる。それはよくわかる。だから裁判自体は病院側が勝てばいいと思っている。

だけど、医療の側に、本当に反省点はないのか。遺族にしてみれば、警察に相談していたのに「大丈夫ですよ」といわれて放置されたまま娘をストーカーに殺されてしまったようなものではないか。遺族が「全く予想外」という言葉に不信感を覚え、後に病理医が「ガンの可能性はあった」という内容の発言をするのを聞いて黙っていられなくなった気持ちが分からないのか。

そりゃいちばん悪いのはストーカーであるところのガンだろうよ。だけど、納得できない気持ちのいくらかは、実際、医療関係者の発言が招いているんじゃないか。同じ死ぬのでも、やれるだけのことをやって、「これでも死ぬなら仕方ない」と思って死にたい。それが叶わなかったから、いっそう悔しいんじゃないか。

繰り返すが、裁判は病院が勝てばいいよ。だけど、裁判を起こす他に、遺族に何ができたというのだろう。同じような思いをする人を減らすために、どんな方法があったというのだろう。

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