趣味Web 小説 2010-08-14

「血液型性格分類」と「郷土性」

要約すると、現代の日本では人々が「血液型性格分類」を「信じる」ことによって「血液型性格分類が自己成就」し、性格分類が次第に妥当性を持ち始めている、という内容。だから血液型性格分類は有用だ、と話を展開するので、私は「えっ!?」と驚いた、のだが……。

ABO FANには、リンクしたもの以外にもいろいろ記事がある。そこで繰り返し引き合いに出されているのが「郷土性」の研究だ。どういうことか? 生育環境の性格への影響を「悪」としないならば、例えば大阪で生まれ育った人が「大阪人らしい性格になる」ことが人間性の毀損といった「悪」ではないならば、血液型性格分類が広まった社会で生まれ育った人が「血液型性格類型に沿った性格になる」ことを「悪」とみなす根拠は何か、ということだ。

ううむ、と唸ってしまった。性格の郷土性を裏付ける研究は多々あり、遺伝子とは関係なく、環境によって人の性格が変化することの証左となっている。つまり、人が生まれ持った性格が「外力によって少しも歪められることなく開花する」なんて、まずありえない、と。伝統的な食品ゆえに餅が規制されず、新参のこんにゃくゼリーだけが規制されようとしていることに首を傾げる私の姿勢と、ABO FANさんの主張が、重なった。

A型の子どもを、A型らしく育てようとしている親はいない。そのような社会でもない。ところが、郷土性については、親も社会も、むしろ積極的に子どもを型にはめようとしていないか。そうして、「出身地」に対する「偏見」は「現実」となっていく。大阪人なら全員がこうだ、とはいえない。それはわかっている。しかし、多くの人が一定の先入観を抱いていて、その先入観は現実の体験によって強化されていく。

なぜ「郷土性」はよくて、「血液型」はダメなのか。どちらも子どもが自分で選ぶことのできないものではないか。「郷土性」の問題が「地域差」にあるならば、全国の環境を均一化してしまえばよい。それでも、環境が「本来の性格」を「歪める」ことは避けられない。しかし「本来の性格」って何だ? そんなもの、実際に存在しうるのか?

会社でチームを作るとき、理想的には個々人の性質を十分に把握して適材適所を貫くべきという話に異論は出ないが、実際には、人は自分自身すらよくわかっていない。仕方なく、過去の経験や根拠不明の通説・風説も人事に影響してしまう。「徳保くん、生まれは愛知だったよね」「育ちは千葉ですが」「今度のプロジェクト、愛知出身の**くんと組んでくれ」「了解しました」

いや、出身地は関係ないだろう、と思う。ようするに、誰でもよかったのだ。でも籤引きにするのは無責任だと思った。何か理由を付けたかった。だから、同郷の二人ならうまくいく、そう信じたのだ。まあ、いいんじゃないか。学生時代、「血液型でチーム編成を決めた事例」をネットで読んだときには直感的に嫌悪感を抱いた私だが、なぜか同じような気持ちにはならなかった。

しかしそれは「郷土性」という怪物が闊歩する社会に馴らされてしまっただけではないのか。逆に、それを原理的に否定しないなら、「血液型性格分類」と「郷土性」への対応の差は、それぞれの仮説の説明力の差だけに支えられているのではないか。となると、そのボーダーはもはや……。

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