この手の議論の多くは、「どうして高利貸しが大きな利益を出すことができたのか」という点を誤解しているように思う。借りた金を返せないような人になんか誰も貸したくないわけだが、利便性を優先して審査を簡単にすると、そういう人もやってきてしまう。だから利率を高めに設定する。当然、少しでも利率は低い方が客は集まりやすいわけで、簡単かつ精度の高い審査の実現に各社は知恵を絞ってきた。
しかし利率競争は低調だったではないか? そう。実際には、審査技術の向上は、いっそうの審査簡素化の実現、即ち借り手の利便性向上に配分された。それが消費者の選択だったのだ。サラ金より低利な小額融資市場は、「初回のみ一定の審査を行う」クレジットカード会社のカードローンなどが押さえていた。初見の人を相手にした簡単審査では、どうしても太刀打ちできない。それで、「低利を求めるならカードローンでいい、サラ金は利便性を追求せよ」が市場の回答となった。
サラ金業界の歴史を遡れば、人権を軽視した取立てによる損失の圧縮が「より頭を使わずに実行できる利益増大策」としてまかり通っていた。これは政府が規制した。この規制は私も支持する。しかし、「金利とリスクの釣り合う解」は金貸し各社が自由に追い求められる方がいい。「破産者を一人も出すべきでない」といえば自由がなく非効率な管理経済へ進むしかない。「簡単にお金を借りられる社会は間違っている」などと決め付けて、大衆の常識が経済を縛りつけることがあってはならないと考える。
金利に上限をつければ、金貸しが取れるリスクには自ずと制限がつく。結果、経済的に破綻する人が減ることはたしかだ(そうでなけりゃ金貸しの方が破産する)。しかし、大半の人が問題なく借金を返済できていたからこそ、サラ金業界は潤っていたのだ。
大半の借り手は、簡単に融資を受けられる利便性と金利が釣り合うと考えて、他人の強制ではなく自分の意思でサラ金から融資を受けていた。金利を規制するということは、簡単に小額融資を受けたいという需要を頭ごなしに押さえつけるということだ。経済問題に限らないが、薄く広い(合計すれば大きな)メリットは、狭く深いデメリットの前にかき消されがちだ。
これは功利主義とリベラリズムの対立だ。自分の意思で金を借りる人と貸す人がいて、破産も生まれる。この、誰が強制したわけでもない破産というものを、国家が「強制的に減らす」ことに正義はあるのか。
功利主義者は「簡素な小額融資の利便性は、破産の害を相殺し、さらに利潤を生み出す規模だった。それは市場でサラ金が成功した事実から明らかだ」と考える。しかしリベラルは、社会全体の利益より痛みの解消を優先するから「破産して自殺するような人がいる限り、それを減らすのは明らかに正しい」と考える。
かつて消費者金融最大手だった武富士が、会社更生法を申請するという。「グレーゾーン金利」が事後的に「違法金利」とされ、リスクと金利のバランスが崩壊した。法改正後にはリスク低減策を取ったが、過去にはグレーゾーンの高金利を前提にリスクを取っていたので、「過払い利息の返還」による経営悪化は必然だ。
グレーゾーン金利問題で消費者金融各社が軒並み経営難に陥ったことは、各社が「儲け過ぎている」との批判が実態に即していなかったことを示している。高い金利に見合った、大きなリスクを取っていたのだ。