「道州制+地方分権で中央省庁の大半を解散してしまえ」みたいな意見には乗れない。
地方分権の利益を説く人が、まともな実証データを出しているのを見たことがない。他方、市町村の合併は行政の効率化に、短期的には多少の、長期的には一定の効果があるというデータは、いくつか目にしてきた。企業の合併と同様、分権ではなく集権にこそ、合理化の利益はあるのだと思う。
私の暮らす栃木県小山市は、半世紀ほど前に間々田町と合併した。当時、間々田と規模に差のなかった野木町はその後、独自にこじんまりとした福祉施設、工業団地、スポーツセンターを作った。どれも小山市内の各地に立派なものが存在し、車で移動すれば多少道に迷っても1時間以内に到着できる。
旧間々田町には公共施設が乏しいが、(私の知る)多くの住民は、さして不満に思っていない。「旧間々田町」の範囲をきちんと認識しておらず、単純に自宅から近いか遠いかという判断しかしていない。だから施設の場所が昔の町域の外であっても、交通の便がよければ不都合ないわけだ。
住民の満足度が同等なら、経費は安い方がいい。野木町が間々田と同時期に小山市に合併していれば、施設の集約が可能だったはずだ。
私が育った成田市は、数年前に近隣の町と合併した。そのとき(少なくとも私の両親の周辺にいる)成田市民が衝撃を受けたのは、新規加入地域の下水道と都市ガスの普及率の低さだった。図書館や公民館、レジャー施設なんかを作る前に、やるべきことがあっただろうに……そう思った。いま急速に下水道とガスの工事が進められているが、「人間は生活の実質より見栄とプライドを重視する」事実に、人々は慄然としたのだった。
地方自治体の境界線は、住民の心に枠を作ってしまう。中小の町村が、何でも自前で施設を持つ必要はない。隣町に一定のお金を払って、施設を使わせてもらえばいいのだ。が、「我が町の土地にない施設に公金を投入するのは、どうしても許せない」というのが住民感情である。
県も同じだ。「なぜ我が県には空港がないのだ」と考えてしまう。そうして、どれだけ無駄遣いをしてきたのだろうか。県単位で人口の増減に一喜一憂したり、県単位で産業メニューをフルコースで揃えようとしたり。地域エゴのために合理性がどれだけ歪められてきたか。「一票の格差」もその典型だ。「まず各県に代表を1人立てる」という区割りの原則が、参院選の1票の格差を生む元凶である。
夕張市だって、「札幌市の辺境部」だったなら、無謀な人口維持策を講じることなく、静かに滅びていくこともできたろう。限定された行政区域の内側で自立しなければならぬ、という強迫観念があるから、衰退の道に甘んじるという選択ができないのだ。
矛盾したことをいうようだが、県下に政令指定都市が誕生したり、政令指定都市が行政区を設けたりすることには、合理性があると思う。これらの制度が、集権の利益を損なわないよう一定の配慮をしている点に、私は注目したい。
「結局、行政区を設けるなら、市そのものを分割すればいいじゃない」とはならない。市長も市議会もひとつでいい。しかし、ある程度のサイズで分割したほうが都合のいい部分は分割しましょう、と。政令指定都市も、都道府県と完全に同等の扱いとはされていない。警察、教育、農林、防災など、人口より地域的な広がりを重視する意義のありそうな分野は、概ね都道府県の担当となっている。
ようするに、事業の性格によって、適切な規模というものがあるのだろう。都道府県と政令指定都市の仕事の区分は複雑なのだが、誠実に考えていけば、どうしてもそうなるのではないか。道州制を導入したって、中央省庁のそれぞれに、国が担当するのがふさわしい仕事が残るはずだ、と思う。