趣味Web 小説 2010-09-21

根拠薄弱な社会的制裁

1.

ふじぽんさんの記事には批判的なコメントが多くついているが、私はどちらかといえばふじぽんさんに共感する。少なくとも東さんに感心はしない。

私が納得するのは、増田さんの記事のような対応。ちゃんと真偽を確認し、その後、ルールに則って処罰すべきだ。twitterでつぶやいただけでは、証拠にならない。しかし東さんがつぶやきを転載し、しかもその内容を真実と断じてみせたなら、「東さんの判断を信じる」という経路に乗って社会的制裁が先走ることになる。それがよいことだとは全く思わない。

東さんは肝心のカンニング問題について「ぼくのフォロワーには早稲田関係者は多数いるので、彼らが処分は決めるでしょう」という。これが殺人の容疑だったら、東さんだって直感だけで犯人(と信じる人物)を大勢に紹介して社会的制裁にかけようとはしなかったろう。所詮、東さんにとっても「カンニングなんてのは不愉快なだけで大した問題ではない」という認識があったんじゃないのか。バレたら人生が大きく変わりかねないほどの大問題に対して、こんな手抜きの対応は解せない。

学生に真偽を確認した結果、「冗談です」といわれ、他に証拠も見つけられなかった場合はどうするか。無闇に他人の名誉を傷つけることは許されないので、「このような冗談は笑えない。俺は認めない」と批判すればよいと思う。その場合、今回のような大騒ぎにはなるまいが、それが「本来の話題の大きさ」だったのではないか。東さんがつぶやきの内容を真実と断じたからこそ、注目を集めたのではないか。もし公式RTだけして、それ以上、何の評価コメントも付けなかったら、こうはならなかったろう。

2.

これは東さんだけの問題ではない。多くの人々が、「きっとそうに違いない」といって、実際にはロクな証拠もないのに人を悪い方に決め付けるから、こんな騒ぎになる。学生はたしかに隣の人に答案を見せてもらったと書いているが、「それでも単位を落とす」ほど講義の内容に関心を持てなかった、という文脈があってのことだから、カッコの部分を強調する最大級の表現を模索した結果に過ぎないかもしれない。

「寝起きが悪くてイラ立っていたので、玄関先で寝ていた野良猫を思いっきり蹴飛ばしてから自転車に乗って学校へ向かった。門を出るとき後輪が尻尾を踏んだので、またギャッといった。」なんてウェブ日記があったとして、いちいちそれを真実だと確信して、学校へ通報するのかという話。いやまあ、通報するのは自由だとして、そのとき「こんなヤツは即刻、退学にすべきだ」と怒っているようだとヤバイ。「もし記述が事実の描写なら」という仮定を置かねばなるまい。

ちなみに、以前から時々書いていることだけれども、私の備忘録には適当に創作が混じっている。なので、書いてあることをいちいち事実だと認識しないでほしい。「書き手の実際の生活をベースとした、架空の人物である徳保隆夫さんの備忘録」として読んでいただきたい。「私小説」にだって適当に創作が含まれているわけで、この備忘録は、そういうものである。

ともかく、件の学生は、申し開きの場も与えられないまま、東さんの信用力によって叩き潰された。東さんは、学生のつぶやきの他には何ひとつ、具体的な証拠を挙げていない。にもかかわらず、大勢が学生を「単にカンニングしたと書いた人」ではなく「実際にカンニングをして、それをウェブで公言した人」として批判した。私自身、こういうことからは逃れられないから、自戒を込めていうが、みんな「どうかしている」。

3.

東さんは、肝心の真偽の確認を、完全に他人任せにするという。もしカンニングの事実がなかったとしても、「ぶっちゃけ言うと、カンニングより、「カンニングしています」と堂々とツイートするほうがよほどやばい。」と予防線を張っているから、大丈夫だと思っているのだろう。しかし、繰り返しになるが、ただ単に「カンニングしました」と書くだけで、これほど大きな批判が集まったとは思えない。

言語感覚は人それぞれだが、「社会の良識」なるものは一応、ボンヤリと存在している。良識からズレた人が、大勢の「不快感」によって表現の自由を抑圧されることを、私は全否定しない。

でも、その抑圧が「記述から大勢が想像することは全て真実として扱う」なんて方法でなされるのは、ホント勘弁してほしい。ところが現実はどうだ。今回のカンニングの件など、実際にそう書かれているのだからまだマシで、「**だって? とすると……、**としか考えられないな!」なんて経路で全く身に覚えのないことで叩かれたりする。ひどい話だが、こうした「理由のある偏見」は、それを偏見だと認めてもらうことさえ不可能に近い。

予想に基づく批判には、「もしこの予想が正しければ」という条件が付く。単純なことだが、それさえ認識できていれば、自ずと批判のトーンは抑制されるのではないだろうか。

「カンニングしたと書いた人」と「実際にカンニングをして、それをウェブで公言した人」とでは、批判される度合いは相当に違うであろう。ていうか、「カンニングした」と書くこと自体は、表現の自由の範疇ではないのか。ルールを否定・批判することと、実際にルールを破ることとは別問題だ。いや、この書き手は実際にルールを破っているはずだ、なんて「確信」で社会的制裁が発動するのは恐ろしいことだ。

関連:

私は「誤解される方が悪い」という人が嫌い。事実と異なる前提認識から、過剰な批判をしてしまったなら、まずそのことは反省すべきだと思う。「どちらが、より悪いか」なんて関係ないだろう。

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