今月18日、仙石由人官房長官が参院予算委員会の答弁において「暴力装置でもある自衛隊はある種の軍事組織でもある」と発言。途端に怒りの声がワーッと上がり、すぐに「実力組織」と言い直し、「不適当だったので、自衛隊の皆さん方には謝罪する」と陳謝する一幕があった。
仙石長官は「軍事組織」を「実力組織」と訂正したんだ、という解説もあったが、多くの人は「暴力」を「実力」と言い直した、と解釈した。
この件に対して私の視界内で盛り上がった意見は2つあった。
以下、そこから派生した話題。
私はヴェーバーを読んでも要領を得なかったので、だったら黙っていればいいのだが、そこを敢えて蛮勇を奮って素朴な感想をいえば、hokusyuさんの意見の方が納得できる感じがした。
すべての国家は、体制を維持するための究極的手段(ウルテイマラテイオ)ultima ratioとして、軍隊、警察などの暴力装置を有している。暴力装置をまったく欠いたままで、特定の体制を継続的に維持することは不可能だからである。
暴力という言葉は、きわめて曖昧に広く用いられている。政治学などでは正当性や合法性を欠いた物理的強制力と定義されるのが普通であるが、社会学や社会心理学ではもっと一般的に攻撃の一形態として捉えている。(中略)平和研究においては、貧困、抑圧、人種差別などをさす「構造的暴力」という概念が定着している(中略)暴力という言葉を用いるときは概念規定に細心の注意を払う必要がある。→権力
権力とは、ある個人なり集団なりが特定の方法(制裁、威嚇、実力の行使等)によって、他の個人や集団の意思および行動に影響を与えうる能力をさすといってよい。
マルクス=レーニン主義によれば、恐慌、失業、窮乏化、さらには戦争といったブルジョア社会の矛盾(中略)は、軍隊、警察、刑務所などの暴力装置を備えた国家権力を通じての、支配階級による搾取の結果であり、「プロレタリア国家のブルジョア国家との交代は、暴力革命なしには不可能である」ということになる。
sleepless_nightさんが集めた多くの本の記述や、大屋雄裕さんが論拠なしで提示した語義は谷藤説と合致するし、その他、私の観測範囲内では、インテリ諸氏の見解はほとんどが「自衛隊は暴力装置」を支持するものだった。
「暴力」や「暴力装置」がヴェーバーの専売特許なら、もう少し違う反応になっていたと思う。「暴力装置」はありふれた言葉なので、「えっ!? こんな言葉が、国会では失言になっちゃうの? 嘘……」という感じで反響を呼んだのだと思う。「暴力装置」は既に、最初にその言葉を作った人の定義を離れて普及している言葉だ。原典探索より現在の使用例や辞書の説明を収集する方が大切だと思う。
ちなみに最近、私が読んだ本では、エーリカ・マン『ナチズム下の子どもたち』は学校を暴力装置と呼んでいたし、佐藤文明『戸籍がつくる差別』は日本の戸籍制度を暴力装置だと説明していたと思う。それらの本において、学校も戸籍制度も、国家の統制下にある諸機関として登場する。
なお、私がヴェーバーの翻訳に目を通した限りでは、ヴェーバーが現代の日本の自衛隊を「暴力装置」と呼ぶことを認めるかどうかは判断できなかった。「装置」と「機関」「組織」が全然違うのか、あるいは視点の問題なのかがわからない。国家の一部分に焦点を当てて論じるとき、「機関」を「装置」と呼べるなら、特定の機関を「暴力装置」といっていいことになる。『社会学の根本概念』はヴェーバー謹製の社会学用語集なので、何度も読み返したのだけれど、答えを得られぬままギブアップした。
ただ、ヴェーバーが自衛隊の持つ防衛力を「暴力」とみなすことはほぼ確実。そして、仙石長官が攻撃されたのは、自衛隊を「暴力装置」といったからというより、防衛力を「暴力」といったから、だろう。「暴力装置」論議に、大した意味はない。仙石長官には「ヴェーバー的な意味で「暴力」という言葉を用いましたが、私の言葉足らずで誤解を招き、議事に遅滞をきたしたことをお詫びします」などと説明してほしかった。
学術用語を言葉狩りの対象にされてはたまらない。常識的な言語感覚とのズレを丁寧に説明する必要は認める。だが「自衛隊を暴力装置と呼ぶような人物は大臣として不適格」などという国会論議には寒気がする。
途中で紹介した本について。なぜ学校や戸籍が暴力装置なのかといえば、個人の納得と同意を基礎としていないから。例えば、自分の名前なのに、自由に変更できないのは、戸籍のせい。究極的に個人の意思を踏み越える強制力を持った機構なので、著者らはそれを暴力装置と呼んでいる。そんなこといったら、社会制度なんてほとんどみんな暴力装置なんじゃないの? ハイその通りです、ということらしい。
……ただ、「暴力装置」は左翼用語、というレッテル貼りは、少なくとも日本語で書かれた一般書の世界では、それなりに妥当ではないかと思う。対談本などにナチュラルに「暴力装置」が出てくる作家として印象深いのは大江健三郎さんだったりするし。印象論としては、一定の説得力を感じる。
自民党所属の衆議院議員で元防衛大臣の石破茂さんが新聞の対談記事で自衛隊を暴力装置と述べていたように、保守系の論者も暴力装置という言葉を使う事例はいくらでもあるだろう。だが傾向として、革新系の人の方が好んで使う言葉だな、とは思っている。ちゃんと調べてみたら、違う結果になる可能性は否定しないが。
個人的には、レーニンの「暴力装置」はヴェーバーの「暴力」と同じだと思う。ヴェーバーは「暴力」一般を説明し、レーニンはある種の「暴力」について述べている。
12月3日、政府は「憲法の下で認められた、自衛のための実力組織である自衛隊を表現する言葉としては不適切だ」との答弁書を閣議決定した。
平成二十二年十一月十八日の参議院予算委員会における、仙谷内閣官房長官の「暴力装置」との発言については、本人によれば講学上の用語として発言したものではあるが、憲法の下で認められた自衛のための実力組織である自衛隊を表現する言葉としては不適切であり、本人も、同委員会において撤回して謝罪し、また、菅内閣総理大臣もこの発言についておわびを述べたところである。なお、菅内閣は、政治主導によって、国民が政治に参加する真の国民主権の実現を目指しており、「社会主義・共産主義国家を目指していく」との御指摘は当たらない。
また、御指摘の通達の発出や仙谷内閣官房長官の「暴力装置でもある自衛隊」との発言により自衛隊員の士気の低下が発生しているとは考えていない。
むぅ……。こうした見解が一般化され、広範囲に適用されないことを望む。