趣味Web 小説 2010-12-03

「誤解を生む」から「世に問うことすら許さない」

どちらもはてブで少し盛り上がった話題なのだが、一方では机上の議論で大きな可能性を封殺したエリートたちを嘲笑し、他方では市場の洗礼による淘汰を拒否して、そういうものが世に出ること自体を許さない。たぶん、それぞれ別の人がコメントしているのだろうが……。

AT&T幹部の懸念はマクロでは外れたが、ミクロでは現実のものとなっている。問題は確かにあった。が、利益の方が大きいから、社会に受け入れられた。だいたい、利益というのは薄く広く作用し、不利益は狭く深く作用する。だから、懸念を強調すれば、たいてい利益を訴える側より説得力があるように聞こえるものだ。

大上段に構えて頭ごなしに否定するのではなく、消費者問題として小さく捉え直して、商売自体は認めるべきだ。「飲むヒアルロン酸」とか、散々テレビCMをやっているじゃないか。「宣伝文句に一定の枷をはめて、その枠内なら消費者に自分たちを信じさせようとするのは勝手」という仕組みでは不満なのか? 既に大々的に商売をしている「飲むヒアルロン酸」より、市場に受け入れられずに滅び去る可能性も十分にある新商売を潰すことに関心が向く感覚が、私にはわからない。

倫理的な心配というのも、既に散々行われている適性検査や性格検査と比べて、どうなのか。それらの検査は、「自分の生来の長所と短所を認識し、自分に合った選択をするための資料」として使われているじゃないか。実質的にDNA検査と何が違うのか。「経験的な確率の高低の問題に過ぎない」という1点さえ、きちんと説明されるなら、その先は受け手のリテラシーの問題だろう。「誤解を生む」なんて理由で他人の商売を叩き潰す世の中で、本当にいいのかね。

『脳トレ』とか、数百億円も動いたわけだ。そして現に、脳年齢は誤解されまくっている。たまたま、ああいうゲームが苦手だっただけの人が、「脳が老化している」と大勢にいわれてショックを受けた。で、そういう側面にばかり注目するなら、あんなゲームは回収すべきだ、となるだろう。でも、そうは考えないわけだ。性格検査だってそうだよ。ずいぶん誤解されている。だからといって、社会から撲滅すべきなのか?

表現の自由とかいっている人も、なぜか自分にとって目新しいものへの不安は、最大限どぎつい言葉で拒絶することが少なくない。仮に、直接には、メリットよりデメリットの方が大きかったとしてもさ、それが世に出ることすら許さないなんてのは、おいそれと主張できることではないと思うのだが。

新しいアイデアや商売を「世に問うことすら許さない」ラインは、きわめて慎重に引き、かつ平等に適用するのでなければ、気まぐれな世間様(の常識とかいうもの)を恐れて萎縮する、息苦しい社会になってしまう。

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