趣味Web 小説 2010-12-04

意味不明の文字列:「WikipediaをWikiっていうな」問題

1.

この説明は、苦しいな、と思った。携帯電話を「ケータイ」と略すことが一般化するまでは、単に「携帯」といったとき、その意味するところが伝わらない場面が実際に多々あった。時が経過し、携帯電話が普及する際、人々の携行品の中で「ケータイ」という略称が広く普及したものが他になかったから、混乱が収束したに過ぎない。

いや、現在でも、「ケータイ」は名詞で、「携帯する」は動作を表すにもかかわらず、両者の取り違えは、よく起きる。生活環境次第では経験のない人もいておかしくないが、「**を携帯したか?」という確認をしているのに、「携帯電話を持っているか?」と間違って伝わってしまうのが、典型的なケース。「ありますよ。確認しました」という報告に安心していたら、じつは**を持っていなくて、出先で呆然とする、みたいな。

実際に人が携帯しているものはたくさんあるのに、日常生活において「携帯する」という言葉が登場する場面が極端に少ないものだから、耳では「携帯する」と聞いても、脳内で品詞の壁を乗り越えて「携帯電話」に変換されてしまうのだ。これはちょうど、松永さんのいう「言葉の本来の意味」が「おかしな略称」に侵食され、伝わらなくなる事例だろう。

私はたびたびこの行き違いに当惑させられたので、今では意識して確認の言葉を「**を持ちましたか?」に変更している。「持つ」といえば用が足りる場面ではあっても、「携帯する」「携行する」「携える」「提げる」などと表現すれば、より状況を限定できるのは日本語の豊かさだ。「携帯する」が滅びたわけではないが、ある種の状況で、より広い(曖昧な)意味の「持つ」を使わざるを得なくなったのは、残念なことだ。

携帯電話が「携帯」と略されたのは、望ましいことではなかった。文字で書くとき、「ケータイ」とカタカナにする表現も広まったが、これは理に適っている。だが、文字表現はこれでよいとしても、耳で聞いた場合の問題は、解消されていない。今後も、そうだろう。

2.

話を「ウィキ」に戻すと、そもそも「ウィキ」を本来の意味で使う場面が非常に少ないので、大多数の人は「ウィキペディア」を「ウィキ」と略しても全く困らないわけだ。「ウィキリークス」は「ウィキペディア」と関係ないのにどうして「ウィキ」がつくの? という疑問を持つ人が登場すること自体を問題視してもいいが、それもなかなか厳しいものがあると思う。

例えば、「でんぷん」と「ちんでん」に共通して登場する「でん」は同じ意味だが、多くの小学生は、意味がわからないまま、まず「でんぷん」という言葉を知る。言葉の順序からいえば、まず「沈む(しずむ)」と「澱む(よどむ)」という状態を理解し、次いで「沈澱(ちんでん)」について学び、「粉」を定義し、それからようやく「澱粉(でんぷん)」にたどり着くべきだろう。だが、「澱む」はいつまで経っても学校で習わない漢字であり、今ではふつう「ちんでん」は「沈殿」と書かれてしまうので、「殿」は意味不明のままだ。それで小学生が困るかというと、困らない。

いや、だからさ、「でん」が「澱む」の意味だとわからなくても、「でんぷん」と関係なさそうな「ちんでん」に「でん」がつくのはどうして? なんて疑問を口にした人には会ったことがないぞ、と。うん、それはそうなんだけど、じつは、「でん」が共通することに、かつての私は関心を持ったのだ。ゼロじゃないということ。「ウィキリークス」は「ウィキペディア」と関係ないのにどうして「ウィキ」がつくの? という疑問を持つ人だって、所詮は少数派だろう。

「ウィキペディア」という言葉は長い。キーを打つのが面倒くさい。もっと短く表現したい。この需要は大きい。「ウィキ」という言葉を多義語とするに十分だと思う。大多数の人が第二の語義でその言葉を使用したので、第一の語義を知らない人が増える、というのは、珍しい話ではない。第一の語義を知らない人がトンチンカンなことをいうのを聞くと、「勘弁してくれ」と思うが、しかし、だからといって主に流通している語義を消そうとするのが、正しいのかどうか。

「流れに掉さす」など、意味が全く逆になってしまい、「棹」の意味まで誤解させるような事例は、「弊害が大きい」と個人的には考える。が、「ウィキ」に「ウィキペディアの略称」という語義を付加する場合、大きな弊害があるだろうか。

私の知人は、長男が「ケータイ」は知っているのに「携帯する」の意味を知らないので驚いたそうな。しかし「ケータイ」ってどういう意味だろう? 携帯電話の他にも、「ケータイ」の付く言葉ってあるんだな。と気付いたとき、「ケータイ」が「携帯」の本来の意味を習得する妨げになるだろうか。

知人のお子さんにとっての「ケータイ」や、かつての私にとっての「でんぷん」の「でん」と同様、「ウィキ」という言葉は、多くの人にとって意味不明の記号でしかないだろう。ならば、松永さんの憂慮は、過剰ではないか。

松永さんの批判は、多義語一般に当てはまる。たしかに、多義語は安直に増やすべきではない。もし可能なら、「ウィキペディア」の略称は「ウィキペ」とか、もっとこう、他と重ならない文字列にしたい。が、難しい。既に「ウィキ」という略称は、他の略称では置換不可能なレベルまで普及している。

これから力を入れるべきは、言葉の多義化に反対することより、「本末転倒な疑問」を抱いた人に第一の語義を伝えていくことではないか。もし言葉の多義化を回避できたとしても、「ウィキ」の本来の意味が知られていない状況に何ら変わりはない。「本末転倒な疑問」は、むしろ啓蒙の好機と考えるべきかもしれない。

余談

最終段落の「本末転倒な疑問」とは、具体的にはどのような疑問でしょうか。文中から40文字を抜き出して答えなさい。ただし記号は字数に含みます。

……という国語の読み取り問題が、ふと頭に浮かんだ。正解は、次の通り。

「ウィキリークス」は「ウィキペディア」と関係ないのにどうして「ウィキ」がつくの?

小学生の頃、クラスメートのこうした問題の正答率は8割に達しなかったから、なかなか言葉というのは伝わらないものだ、という感覚がある。

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