2008年4月、GIGAZINEは「青少年インターネット規制法案」が成立すると、日本のネットは完全に死ぬと主張した。実際に法律が国会を通った同年6月には、今後の動向についてはかなり注視する必要がありますと書いた。はてブでは、この論調に賛同する人が多かった(例1、例2)。
法律は2009年4月1日に施行された。附則の第三条によれば、政府は、この法律の施行後三年以内に、この法律の施行の状況について検討を加え、その結果に基づいて必要な措置を講ずる
そうだ。2011年には、改正案が国会に提出され、議論が行われるだろう。
改正案の作成に向け、青少年インターネット環境の整備等に関する検討会の議論は、いよいよ佳境に差し掛かっている。例によって内容は「真剣な雑談」で、議事録を読んでも面白くない。が、こうした検討会の出す報告書が、けっこうそのまま法律になってしまうのだ。委員たちがどのような関心を持って議論に臨み、何を実現しようとしているのか、きちんと読んでおくべきだ。
きっとまた、法案提出が迫るあたりから、3年間の議論の過程も、実際に行われてきた施策も無視して、不安と恐怖からギャーギャー騒ぐ人がたくさん出てくるのだろう。言葉尻を捉えて、この部分が曖昧だからこんな最悪のケースが考えられるとか何とか。そのような議論が有効だと考える人は、まず名誉毀損や侮辱を禁ずる刑法の条文を読んでみてほしい。刑法をパラパラ眺めれば、曖昧な記述がたくさんあることに気付くだろう。
かつてオウム真理教の信者は、微罪でガンガン逮捕された。一般市民はそれで「安心」していたが、奇妙なことだ。左翼の活動家がビラの配布で有罪になった事例も、特定の状況を狙い撃ちして法律を適用したケースだった。少なからぬ人々がこれを歓迎したが、恣意的な法律の適用に恐怖を感じないのは不思議なことだ。
が、こうした事例から見えてくるのは、「日本の司法は概ね民意に沿って動く」という事実だ。ネット上の声量の大小ではなく、きちんとした標本調査で賛否が拮抗するような問題なら、基本的には司法も慎重な立場を取る。そこから外れる事例はゼロにならないし、当事者にとっては、それが全てだ。しかし、オウム信者に対する特別扱いを歓迎した市民たちは、司法権力が強力な武器を持っていることに、恐怖するよりむしろ安心したのだった。
冤罪が判明するたび、警察や検察は厳しく批判される。しかし、司法の武器を減らすことには、むしろ反対の声の方が強いのが実情ではないか。自由を希求する声が強い(ように私には見える)ネット上ですら、何か問題が起きるたび、政府の規制や罰則の強化を支持する声がガンガン出てくる。
ようするに、「アパートや官舎でのビラ配りが不法侵入なら、宅配便の配達だって不法侵入になりかねないよね」という意見に、大多数の人は「そうだね」と思わないわけだ。
「宅配便業者も、集合住宅の共有部分に入るときは、事前に電話して、受け取りの意思を確認してからにすべき。そうでなれば、配達先の住人から通報されて不法侵入で有罪になっても仕方ない」と真顔で解説する人も、じつは「日本の警察が本当にその理屈で宅配業者を逮捕するわけがない。万が一、逮捕されたとしても、まさかそのまま起訴されて、すんなり有罪判決が下ったりはしないだろう」と思っているに違いない。
あるいは「原田ウイルス」の作者が著作権法違反で有罪になったケース。別件逮捕どころか別件有罪。たしかに著作権法違反だったが、あれが有罪ならtwitterのアニメアイコンだって有罪になってもおかしくない。彼はコンピュータウイルスを作ったからこそ逮捕され、起訴され、執行猶予付きとはいえ有罪判決に至った。(誤記訂正)
どれも同じことだ。もし本当に、有害サイト規制法とやらで日本のインターネットが「死ぬ」としたら、それは、「常識の外側にいた人にとってのインターネット」が死ぬに過ぎない。そして、ネット世論はどうあれ、大多数の国民は、その変化に好感を持つだろう。
一部、世間様と司法の判断にズレが生じる事例も出てくるに違いない。が、どんどんそのズレが拡大していって、大多数の人を(主観的に)不幸にするところまで突き進むなんてことが実際に起きるとしたら……そのときには、有害サイトの規制などより、もっと重大な法律の曖昧さを問題にしなければならないはずだ。
2011年2月7日に研究会の中間報告が出ました。果たして法改正によって「日本の言論の自由とインターネットは死ぬ」のかどうか、大騒ぎになる前に、まずご自分の目で内容をご確認あれ。