経済学の本は、背の高い建物が作る日陰について、概要こんな回答をしていた。
街の住人にとって、近所に新しい建物ができることは、プラスの面もマイナスの面もあるだろう。これを直接に測定し、積み上げていくことは難しい。そこで、住宅価格の変化をモニターし、当該の建物の登場によって価格が下がった分(または価格の上昇が抑制された分)を補償金とするのが合理的だ。
ビルを建てる業者は、ビルから得られる利益と、結果として必要になる補償金額をそれぞれ予想し、最適なビル高さを決めればよい。政府が構築すべきは、こうした補償の仕組みであって、事前にビルの高さを規制することではない。
この議論では、「原住民利権」を認めていない。市場において5000万円の住宅は、5000万円分の価値だけを社会的に認める。現在の市場価格が6000万円の家が、ビルの日陰になった結果、5000万円になったとき、「差額の1000万円を補償金として支給するから、どうしても日当たりがほしい人は引越しなさいよ」ということ。
5000万円で売れる家と、5000万円で買える家は違う(税金、不動産屋の取り分、引越し費用、etc)。だから、補償金は1.5倍にする、ということでもよい。そのあたりは制度のさじ加減だ。とはいえ、原住民が「補償金が1億円でも10億円でも絶対にビル建設は認めない」と訴えても、それは認めないということ。
この背景には、「土地のような希少で人為的に増やすことができないものについて、たまたま現在それを所有している者に完全に独占的な権利を認めるべきではない」という考え方がある。自由経済においては、個々人が自由に価格を決定できることが重要だ。しかし土地のような替えのきかない財は、独占者が無制限に価格を吊り上げることを許すと、市場取引が適正に機能しない。これを認めてよいとすると、他の様々な財についても同様に、独占による市場機能の麻痺を否定できなくなる。だから、「客観的に見てだいたい同じもの」の価格を参照した必要最小限の強制的な取引を支持するわけだ。
海などを埋め立てれば陸地は増やせるが、例えば「新宿」を増やすことはできない。土地はひとつひとつが特別なものである。まあ、工業生産された製品だって、ひとつひとつ「違うもの」ではあるが、その「違い」が問題になる場面が多いか少ないかで話を切り分けている。
上で挙げた日照権の例でいえば、徹底抗戦する原住民に対して、6000万円を渡して土地の所有権を奪ったりはしない。それは「必要最小限の強制」の範囲を超えているからだ。しかし、「1000万円+αの補償金で日照権を買う」取引は強制する。その判断は恣意的じゃないか、といえば、まあ、私もそう思う。だが……。
「迷惑施設」問題が金銭的に解決できれば、費用と便益の関係も明確になる。「お金の問題ではない」と言い募ると社会の端と端をつなぐ媒体が消えてしまい、一部の人が我慢をして、受益者がタダ乗りする世の中になってしまう。障害者施設を作れなければ、それを欲した人々の負担は放置される。
経済学の本の主張は残酷に聞こえるかもしれないが、それは「障害者施設の建設に反対するなど不届きだ」といった意見に対抗するものでもある。他人事だと思ってお説教で問題を解決しようとするのはおかしいんじゃないの、と。