移動の強制は必要ない。故郷に残りたい人は、残ればいい。いずれにせよ、各地域が自活を志向するなら、対立は生じない。所得の再分配は個人単位を基本とし、地域単位では行わない方がよいと思う。自由市場による調整が機能する社会が望ましい。
例えば、どんな仕事も自由に選べて、待遇にも差がないとしたら、人はみな自分のやりたいことばかりやって、経済が成り立たない。自由市場により需給が調整されればこそ、必要に応じた人員の配置が自動的に行われる。一般人が存在すら知らないような仕事であっても、それが本当に社会に必要なものである限り、誰かがその任に就く。居住地の選択も構図は同じだ。無制約に人が住みたいところに住むのでは、必ず無理が生じる。
社会保障は、1人あたりの金額を定額に近付けていってほしい。地域単位ではなく、個々人の生活を定額(に近い形で)保障してほしい。そうすれば、都市部の社会保障水準が地方より明らかに高まることで、足による投票が促される。引っ越すメリットが、明らかにコストを上回るようにもなるだろう。
私は地方の社会保障の水準を大きく切り下げることに賛成しないから、これは実質的に都市部の住民に現在の地方民の8掛けくらいの1人当たり社会保障費を投入すべき、という意見である。爆発的に増える経費は増税によって賄う必要があって、私はそれに賛成する。なお、各市町村が住民税率を調節してサービス水準を上げることにも賛成。人々が多様な選択肢を持てるのはよいことだ。
誰かが変化を受け入れることなしに、経済成長は実現し得ない。だから、変化を拒否する人が、格差への不満を根拠に生活水準のキャッチアップを求めるのは成長へのただ乗りだと思う。全体の経済成長に伴って国が保障する生活水準も上がっていくことを否定はしないが、ただ乗りを手放しで肯定することはできない。
100年前と同じ生産活動しかしていないなら、本来的には100年前と同じ生活水準でよしとすべきだ。もしそれで納得するなら、社会の経済的な負担はかなり小さく、問題にはなるまい。だが現状の地方支援策の積み増しを求め、例えば「日本人なら全員が現代的な水準の医療を受けられ、冷暖房完備の家に住み、自動車を持てるようにすべき」といった目標を立てるなら、それは転居の強制なしには実現不可能だろう。
現代の先進国の文明は、集落の人口密度を必要としている。たしかに「引っ越しなんて簡単にできない」が、過疎地の集落を残しつつ、生活水準の格差を埋めていくことだって、同じくらい難しい。移動の強制という話が、「最低生活水準の引き上げ」とのバーターとして登場するなら、私は理解できる。
つまるところ、私には「貧乏人は故郷を捨てろ」という表現は不当だと思える。諸々の問題があることは認めるが、基本的な枠組みとしては「選択」の問題として捉える方が、妥当ではないか。とくに地方で育った子らが「貧しさ」を嫌って自発的な「選択」をしたことを、「故郷を捨てることを強制された」と被害者のように記述することには疑問がある。
激変緩和措置には賛成する。だから現在行われている様々な施策を全面的に否定するわけではない。だが、「たいていの人は引越しなんてしたくはないのだから、引越しの動機を政府の力で解消しよう」という考え方には反対だ。それは経済の停滞を招き、全員を不幸にする道だろう。
市場がより効果的に機能するための施策こそ、政府が注力すべき分野だと思う。ただしもちろん、市町村の範囲を超えた外部経済性のある政策領域を県や国が担うのは理に適っている。例えば県を跨ぐ河川の管理などは、国が支援するのが自然だ。これは個人が受益者となる社会保障とは問題の枠組みが違う。