大都会の中心部には手頃な家賃の高層住宅物件が乏しい。巨大なオフィスビルであるサンシャイン60の周辺には、低層の一戸建てやアパートがひしめいている。それだけの人口で池袋の生み出す雇用を吸収することはできないので、通勤ラッシュに耐えて遠くから人が集まってくる。不合理きわまりない。
どうしてこうなってしまうのか。いろいろな説明がある。例えば……
といったメカニズムだ。非効率な土地利用にペナルティが存在しないため、便利な街に、貧しい先住民が居座ることになる。そして、いま街を栄えさせている人々が、毎日毎日地獄をみるわけだ。
土地は全て独占商品なので、その取引を完全に自由にすると、市場の失敗が起きてしまう。独占商品だから、原理的に市場価格は存在しない。「似たような土地」がどんな価格で取引されていようと、所有者が「その倍の価格でなければ売らない」といえば、それまでの話だ。
大規模開発のためにはまとまった土地が必要だ。広い土地の中に残った最後の1軒ともなると、ゴネ得の状況になる。いまさら開発中止にもできないから、3倍、5倍と価格がつりあがっていく。どうしても売りたくない土地を売れと迫るので人々はこれを「地上げ」と呼んで政府の規制を求めたが、そもそも論をいえば、独占的所有者が「市場価格」で商品を売らないことの方が問題なのだ。
この5年余り、古書店でいろいろな本を買って読み、図書館の蔵書にも目を通してきたが、結局、「功利主義的な見地に立つタイプの経済学者」の提言は、50年前から全く変わっていない。「住宅や宅地に対しても固定資産税をガッツリかけるべきだ」ということに尽きる。
1970年代以降に広まった概念も取り込むなら、日照権にせよ何にせよ、それを「一片たりとも侵すべからず」といったら都市問題は先住民の既得権益への配慮が過ぎるのであって、諸問題を金銭で補償することで強制的に解決する枠組みが必要になる。日照権もまた、独占的な財産とみなすことができ、どれほどお金を積まれても一歩も譲らぬという主張を認めるのはアンバランスだ。
例えば、こうすれば売り地が増え、状況は一変する。山手線内には手頃な家賃の高層賃貸住宅が続々建設されよう。総床面積は倍増し、職住隣接が実現するだろう。
先住民が分相応の土地や住居へ移動する必要がないよう保護し、その何倍もの人々に広く(通勤地獄などの)負担を強いてきたのが、今日まで続く日本の都市政策だ。
デフレの問題になると鋭く深い痛みを背負わされる失業者への共感が働かず、薄く広い利益を享受する立場に安住する人々が多い。ではどうして、都市問題になると「地上げ」によって街を追い出される少数派に同情し、職住隣接が実現する多数派の方に共感しないのか……。
5%の失業率なら他人事だが、大都市とその周辺に暮らす過半数の人々にとって、非効率を理由とした追い出しは「自分の問題」だと感じられたのか……。たしかに最初に開発が進むのは高級住宅で、金持ちが貧乏人を追い出すように見えるだろうが、土地の流動化は最終的に9割超の人々の生活実感を改善するはずなのだが。
地価税や固定資産税を強化することで半ば強制的に売り地を大量に出現させた場合、短期的には地価の大幅下落が生じる。その変化があまりにも急激ならば、土地の担保価値下落により90年代前半の不動産バブル崩壊が再来する。税率の設定は経済に混乱をもたらさない水準としたいが、万一の場合には、時限的に地価税の税収(の一部または全部)を担保価値毀損分の補助として銀行に注入してもよいと思う。
ただ、仮に混乱が生じても、長期的には、地価は税額と需給を織り込んだ水準に落ち着く。また、土地の流動化促進効果で全体として地価は下がるが、地価が下がれば地価税も下がるので、土地の流動化効果も長続きしない可能性がある。地価が「地価税が痛い」水準で留まればよいのだが……。悪い方のシナリオが実現した場合、土地の私有が独占に直結しない枠組みができるまで、問題の解決には至らない。
人余りの現状を前提とすればたしかに、再開発の結果オフィスばかり建って通勤地獄が解消されない可能性を否定できません。ですから、オフィスと住宅の税率に差をつける、という政策的な調整要素は残してよいと思います。また、同じ市町村の中でも特定の地域に特定の税率を適用する、という自由度も認めてよいと私は思います。ただ、税率調整の濫用を防ぐ仕組みは必要かもしれません。