書き手の林さんが「衝撃を受けた」と書く内容は、私には直感的に「それはそうでしょ」と思えることばかり。この感覚の差は、様々な分野に影響するものだと思う。端的には、市場経済の考え方にすんなり賛同できるか否か。現物支援に親和的な人は、何とか仲介者の人智を尽くして需要と供給のミスマッチを解消しようとする。私なんかは、直感的に「そんなのは無理。口のうまい人、声の大きい人の掲げた建前が勝って、その実、みんなに不満が残る愚策」と思うので、現金支援で「使い道はご自由に」ってのがいちばんいい、と考える。
現物は支援する側の感情、現金は支援される側の感情に寄っており、林さんはスパッと頭を切り替えて支援される側の本音に寄り添おうとしているように見えたので、「センスがいいな」と思った。
……。「センスがいいな」と思った……って、何ですか、コレ。自分でキーを叩いたんだけど、出てきた文字列には目を疑ったね。いま自分、本当にこんなこと思ったの? うん、思ったみたいだね、残念ながら。んー、自分と意見が近くなったから「センスがいい」ってのは、その、どうかと思う。日頃「いや、私は自分の分をわきまえてるつもりですよ」と自戒していたはずなのに、これが自分の本音ですか。はぁ……。あー! あーあーあー!
頑張ってスピーチして支援をゲットする、ってのも、まあ、何だな。でも、こういう「試練」があった方が、受け取る方は気持ちが楽になるのだろうな、とも思う。
いろいろ本を読んだりドキュメンタリー番組を見ただけの感想だけれども、施設の子の進学率が低いのは、自分に支援を受ける価値があることを納得できてない、みたいな理由がかなり大きい感じがした。単純に進学したいかしたくないかといったら「したい」のだけれど、多くの人に感謝して生きるのはもう嫌だ、みたいな。ふつうのご家庭で育った方の場合、親が学費を出してくれないと「ケチ」だと思うのがふつうじゃないかな。でも施設の子や里子の場合、さっさと自立して「支援していただく立場」から抜け出たいという気持ちが勝つ。
ボランティアで就学支援の無料下宿をやっている人もいるわけで、国立大の学費程度の奨学金なら大した金額でもないし、徹底的に他人の世話になる図太さがあれば、大学に「行けない」わけがない。だから問題は、客観的な条件より、心の問題だと思っている。まあでも「心の問題は解決不能」と前提するなら、客観条件を変えるしかないんだけどね。