趣味Web 小説 2011-03-12

東北地方太平洋沖地震

1.被災

3月11日、午後2時50分ごろだったか。人生で2度目の、訓練でなく机の下に隠れた地震(注)。最初は、「最近多いんだよな」とだけ思って、窓辺へ行き、外を眺めていた。

「今日のは長いですね」「長いな」「ちょっと揺れが大きくないか」「あ、人が出てきた」工場から何人かが出てくるのが見える。地震発生時に建物の損壊がないか点検する担当の人たちだ。いつもお疲れ様。「音が」「この音はヤバイ」先輩がダダダッと走り去っていく。この揺れの中、階段を駆け下りる気か。「う」「まずい」「床が」「安全行動!」課長指示が出たのか? よくわからない。

一瞬、呆然とする。逃げ遅れた……。ハッと我に返り、慌てて机の下に飛び込む。揺れは止まらず、いよいよ激しさを増していく。戸棚も壁も軋みを上げ始める。こんなところで死んでたまるか。

机の脚にしがみついていたら、すぐ近くに20kgくらいの重量物が落下した。換気口のカバーだった。危うく、死ぬところだった。

写真1 換気口の闇

地震発生から20分後、退勤命令が出た。余震が続いているため、復旧作業は月曜日以降と決まった。

注:私が初めて訓練でなく机の下に隠れたのが千葉県東方沖地震(1987年)だ。自宅近くの東京ガスでは震度7を記録し、教室のテレビや、校舎の屋根瓦が落ちた。

2.対応

駅前にはタクシーが数台停まっていた。田舎の駅だから、慌ててタクシーで帰る人もいないわけか。

タクシーの車内から見える街は、平静を保っているように見えた。ところどころ、通行止めになっている。その先には、一部損壊した家屋などが見えた。この対応の速さはすごい。感心した。

写真2 この先、危険。

が、帰宅してみて愕然とした。電気、水道、ガスが止まっている。会社はそれらを全て自前で用意していたので、それらが止まったことに気づかなかったのだ。とりあえず電気のブレーカーを落とし、ガスの元栓が閉まっていることを確認した。水はどうにもならない。

予想はしていたが、電話がつながらない。会社でテレビを見たとき、震源地は東北地方だといっていた。きっと実家は大丈夫だろうが……。しかし情報がないのはつらい。引越しの際、ラジオを手放してしまったことを後悔した。

写真3 ちょっとした被害

電気がないなら、日没までに部屋を片付けなければならない。こんなこともあろうかと、箒と塵取りを準備していたことが役に立った。

30分程度で片付いたので、川へ向かった。トイレ用の水を確保したかった。信号も停電している。警察官が手旗で車の流れを捌いている。混乱はない。

河原には多くの車が停まっていた。さらに次々と車がやってくる。へぇ、ポリタンクを用意している人って、こんなに多いんだ……。私はそれほど用意がよくないので、ビニール袋と大鍋だ。大鍋のみだと、傾けただけで水が失われてしまう。いったんビニール袋に水を入れ、口をきっちり縛ってから鍋に入れれば、安全に運べる、という工夫。

……重い。川を離れたときは「もっと多くの水を運びたい」なんて思っていたが、ちょっと歩いただけで「3割くらい水を捨てようかな……」と弱気になってしまった。しかし、いざというときのために川近くの高台の家を選んだのだ。直線距離で500m、道なりに1km足らず。どうにか踏ん張って、帰宅した。

日没。やることはやったぞ。

3.街へ

情報がほしい。街へ出ることにした。

公衆電話と警察に行列ができていた。お店は全部閉まっている。ラジオを買うことはできないわけだ。あちこち回ったが、ATMも使用不能だった。市役所が避難所を開設、帰宅できなくなった人々を案内していた。職員の方々にも自分の家があるだろうに。公務員の方々の奮闘に感謝する。

駅前の商業施設が店頭でラジオをかけていた。大勢が聞き入っている。実家近辺も震度6だという。最悪の事態もありうるわけか。30分ほどニュースを聞く内、あたりはすっかり暗くなった。

写真4 停電した街

帰宅。

午後5時半、日没から時間がたち、親戚宅にようやく電話がつながった。両親は無事とのことだった。あと消息不明なのは弟だけか。

春分の日まで約2週間だから、夜明けまで12時間。長い夜になる。停電はいつまで続くかわからない。電気は貴重だ。携帯電話と懐中電灯の電池は節約したい。もう寝る。

4.夜

3月12日、零時過ぎ。目が覚める。余震に慣れてしまったのか、案外、熟睡できた。

しかし夜明けはまだ遠い。これから、どうしようか。

夜が明けたら実家へ行こうか、と思った。が、まだ家に帰れずにいる人がたくさんいる。日曜まで待つべきか。

眠れない。こういうとき、電池が長持ちするゲーム機はいいな。DS Lite は画面を暗くしておけば10数時間動作するんだったと思う。

取り留めのないことをいろいろ考えた。明日(まあ今日だが……)休みでよかった。

ふと思い立って外に出て、空を見上げる。満天の星空。感動した。

そして、朝

午前4時過ぎ、電力の回復と断水解除を確認。電力会社のみなさん、水道局のみなさん、本当にありがとう。

テレビニュースを見る。今朝から、電車が動き始めるらしい。寒い駅で夜をすごした皆さん、お疲れ様です。この様子なら、うちの近所では、明日にはお店が開きそう。新聞が届く。ビックリした。本当にありがとう。私は2日間静養する予定だけれども、地震から半日後にはこうして黙々と勤めに励む人々がたくさんいる。月曜から、自分もしっかり自分の役割を果たしたい。

掃除機で部屋をきれいにした。

夜明け。こんなに待ち遠しかった朝の光は記憶にない。

写真5 朝の光

実家に電話がつながった。両親の声を聞くことができ、ホッとした。弟はまだ、消息不明である。

5.その後

3月12日夕刻

ロイターと共同通信の写真で東北の被害を知る。言葉を失った。

昼ごろ、ガス復旧。午後、弟の無事を確認。今日は一日中、街を歩き回った。一部の店が早くも開いている。頭が下がる思いだ。私は、とくに買うものがない。日が傾く頃にまた覗いてみると、飲み物や食べ物は、あらかた消えていた。疲れた。今日も日没とともに就寝する。

3月13日夕刻

ニュースなど見ても自分の無力を痛感するばかりだ。原子力発電所から直線距離で180km余り。ニュースを聞いていなかったらどうなる、というわけでもない。私はもう、新聞だけでいい。そう決めた。

今日も、日が沈み、暗くなってきた。自分は自分の仕事をする。このまま電灯をつけずに就寝し、明日からの仕事に備えたい。

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