趣味Web 小説 2011-03-21

災害の記憶、復興の行方

1.

2005年、アメリカ南部の都市ニューオーリンズは、ハリケーン・カトリーナに襲われた。堤防が決壊し、もともと海面より低い地域を中心に、広範囲に洪水の被害に遭った。海面より低い地域は、1965年にも洪水に遭っており、40年ぶりの大被害となった。長期的な視点に立てば、洪水被害を避け得ない地域なのである。だが、復興に際し、防災の専門家が「もうこの場所に住宅を建てるのはやめよう」という報告書が発表すると、被災民たちは猛反発した。仕方なく、大統領は原状回復を約束した。おそらく今世紀中には、同地域は再び洪水に飲まれ、大勢が命を落とすのだろう。

1896年、岩手県の宮古に遡上高20メートルを超える(注:東日本大震災による津波に迫る)大津波が押し寄せた。三陸海岸という名称が生まれる契機となった、明治三陸津波である。多くの集落が壊滅し、死者は約2万2千人にもなった。津波の難を逃れた人々の一部は、命からがら辿りついた小高い土地に「ここより下に家を建てるな」と刻んだ鎮魂の碑を建てた。が、街は再び、その碑から見下ろせる場所に復興していった。ちなみにこのとき、大船渡には遡上高38.2メートルの津波が押し寄せた。これは観測史上最高の値である。

1933年3月3日 昭和三陸津波(中日新聞社)

1933年、復興した街を昭和三陸津波が襲う。最も被害の大きかった集落では、住民の4割が落命した。このとき、大船渡では遡上高30メートル近い津波が観測されている。それでも、三陸の沿岸集落は、間もなく復興していく。1958年、宮古市田老地区の防潮堤1期工事が完成する。1960年、防潮堤はチリ地震津波を見事に防いだ。そして1980年、高さ10メートル総延長2.5キロメートルの防潮堤「万里の長城」が完成。だが2011年、防潮堤を数メートル超える津波が訪れ、田老の集落は壊滅した。同様に、岩手、宮城北部の大多数の各沿岸集落で、現代文明の備えは突破された。宮城、福島では海沿いの平野部を数キロメートル内陸まで津波が走った。多くの命が、海に呑まれていった。

おそらく、いま原状回復を望む人々の大半は、死ぬまで再び今回のような大災害に遭うことはあるまい。ならば、自分にとって一番幸せな未来を選択するのは、当然のことだろう。仕方のないことだ。失ったものを、可能な限りそのまま取り戻したい。その願いは切実だから……。

2.

地震に耐える住宅は建てられるけれども、津波に耐える住宅は、現実的とはいえない。

故郷の千葉県で、九十九里の海岸沿いに、ハザードマップを無視した宅地造成が進んでいることについては、以前から疑問を感じていた。

昔から浜沿いに家はあったが、中世からの大規模集落は、砂浜から何キロメートルも離れた場所にあった。今回の津波で宮城県の仙台平野は地震による地盤沈下前の旧海岸線から6キロメートル奥まで津波に侵食されたが、江戸時代に建設された街道は、さらにその奥を通っていた。街道沿いに発展した仙台市中心市街地は、だから津波の被害を免れた。房総半島でも事情は同じである。

しかし近代以降、急増した人口を吸収すべく、海よりの平坦な土地にたくさんの宅地が造成された。その危険性は、きちんと認識されていた。千葉県のハザードマップを見れば、それは一目瞭然である。そして2011年、津波がやってきた。津波は、犬吠崎を回りこんで九十九里浜にも押し寄せた。近代的な街並みが、津波に洗われた。車が流され、建物の1階がメチャクチャになる映像を見て、とても虚しい思いがした。

東北地方の各県と異なり、千葉県を襲った津波は、房総沖地震による津波想定の範囲内だった。津波が押し寄せたのは夕方で、地震の後、逃げる余裕は十分にあった。にもかかわらず、10数人が命を落とした。

比較的すっきりと家が並ぶ住宅地は、昭和以降に発展した街ではないかと思う。かつて、海辺の人口はこれほど多くはなかったはずだ。

仙台市の津波ハザードマップを見ると、仮に想定の範囲内の津波であっても、完全に飲み込まれる集落があったことがわかる。様々な事情で、海のそばに暮らさねばならなかった人もいるのだろう。しかし、本当にこれほど多くの人が、どうしても海沿いに暮らさねばならなかったのか。……

とはいえ、20年、30年とその集落で暮らした人々、その集落で育った人々は、客観的な必要性とは関係なく、原状回復を望むだろう。それが人の心だ。お金の問題もある。居住禁止区域に指定されたら、虎の子の土地は二束三文になってしまう。行政には、居住禁止の指示により失われる財産価値を補償する財源がない。

だから、おそらく政治的には、原状回復を基本とすることになるのではないか。それでも、最大波高10メートル程度の津波は、遅くとも今世紀中に再び、東北のどこかへやってくる。いま30歳未満の人は、生きているうちに再び津波の災禍を見るだろう。そのときにもきっと、大半の被災者は「こんな津波は初めてだ!」と肩を落とし、若いレポーターは「信じられません!」と叫ぶのだろう。

3.

秋田県男鹿市1983年5月26日(講談社『20世紀全記録』より)

1983年5月26日、秋田県能代沖でM7.7の地震が発生。102人が死亡・行方不明となった。たった28年前のことだが、記憶に留めているのは1千万人程度でしかないだろう。この悲劇を、1億人が忘れ去った。

1933年3月3日 昭和三陸津波(毎日新聞社)

3000人以上が亡くなった昭和三陸津波も、20世紀や昭和を振り返る本を見ると、じつに小さなスペースしか与えられていないので愕然とする。講談社『20世紀全記録』の記述は、僅か21字。1300ページを超える本の、0.0008%を占めているに過ぎない。

講談社『20世紀全記録』P476

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