私は以前から、買い物をする際、「ありがとうございます」ということが多い。「客なのに、ヘンじゃない?」と首を傾げる人も少なくないのだけれども、私のほしいものを、リスクを負って仕入れ、そしてリーズナブルな価格で売ってくれる人々に対して、感謝しない理由がないと私は思っている。
もちろん、レジ打ちの人は、お店の機能の一部を担っているに過ぎない。レジ打ちの人に感謝の言葉を伝えるのは、他に適当なタイミングがないという消極的な理由が大きい。結局のところ、自己満足の領域には違いない。だから、レジでレシートを貰うようなタイミングで「ありがとうございます」と口にするようなことを、とくに他人に勧めるつもりはない。
ただ、今回の地震で、お店がいつも通りに開かれ、そこで私がほしいものを買うことができるありがたさは、あらためて身に沁みた。これで客が店に感謝する感覚に賛同してくれる人も増えたろう……と思いきや、「せっかく長時間並んでガソリンを入れて**へ行ったのに、**が売り切れていた! 許せない!」とか、「閉店が早い! 発電機くらい用意しておけ!」とか、そんな感じだった。
学校の先生などがよく話していた、「年に1回くらい停電デーを開催したら、みな電気を大切にするようになる」てのは間違いだったな。実際に計画停電がはじまってみると、電力会社への文句ばっかり。「どうして予備の発電所をもっとたくさん作っておかないんだ!」なんて人さえ珍しくなかった。
電力需要の停滞を背景に、「水力発電所の計画を取りやめる」「火力発電所の増設を延期する」といった東京電力の判断を歓迎してきたのは誰か。電気料金が少し上がるたび大騒ぎしてきたのは誰か。「え? 自分じゃないよ」といって無関心を省みないのは誰か。結局、私の問題なのだと思う。
新聞をよく読むと、原子力発電所よりも火力発電所の方が発電能力という観点では被害の絶対量が大きいので驚いた。震災直後には約1600万kWも発電能力が落ちていて、これは震災直前の原発の全発電力に匹敵する。その後、200万kW分復旧しているけれど、残りは夏までに修理するのは難しいそうだ。
東北電力の女川原発は、配電盤が火を噴いたくらい(修理完了)の被害で、原子炉は全く無事だったが、今も停まったままで再開の見通しは立っていない。被害ゼロの東通原発も同様だ。福島第一原発の事故があろうとなかろうと、「今日」の計画停電は避けられなかったんだな。事故に大きな関心を向けるあまり、何でもかんでも「事故のせい」という発想になってしまう人が私の周りにも多いが、その怒りは事実から浮遊している。
批判は批判で、やればよろしい。だが、東京電力の場合、役員報酬など売上げに比して小さなものである。幹部の首を締め上げること自体に意義があるとしても、いま不満を持っている問題を解決するためのコストは、そんな手段では捻出できるものではない。私たちが負担するしかなかったのだ。
21世紀になって以降は、電力需要の伸び悩み、単身者世帯の増加などの影響で世帯あたりの電力消費量は低落している。しかしそれはともかく、私が最も衝撃を受けたのは、1970年代に電力消費量が激増していることだ。1970年代といえば、原油高で省エネ推進の必要性が身に沁みた時代だったはずだ。それなのに、10年間で55%も電力消費量を増やしている。
「喉もと過ぎれば熱さ忘れる」どころか、「いかに熱くともウマいものは我慢できない」というレベル。環境サミットなどで70年代に日本は省エネ技術を鍛えて云々といっても中国やインドが納得しないのは当たり前だと思った。偉そうにお説教するなら、現在の中国やインドと同等の水準まで1人あたりの消費エネルギー量を減らしてみせろ、という話になるのも当然だよ。
これまでの日本人の歩みを振り返るに、夏を過ぎ、火力発電所が修復された後、節電の努力などコロッと忘れてしまいそうだな。地球温暖化にも本音では関心が薄いし、火力発電頼りの状況が続くのだろうな。