「織田信長が周の文王の故事にちなんで岐阜と命名した」という通説について。
1.信長は沢彦に「井ノ口」は城の名が悪いので名を変えたまえと命じた
2.沢彦は岐山・岐陽・岐阜のうち好きなのを選んでくださいと答えた
3.信長は岐阜が人が発音しやすいので岐阜にすると決めた
4.信長は沢彦に「祝語」はないかと聞いた
5.沢彦は周の文王の故事を述べた
6.信長は喜んで沢彦に褒美を与えたという話だ。沢彦が文王の故事を述べるのは信長が岐阜に決めた後のことだ。
もちろん、それを聞いて信長は気に入ったのだろうし、沢彦も信長が喜ぶことを予想していただろう。だが、これはやはりどう考えたって「信長が周の文王の故事にちなんで岐阜と命名した」という話ではない。
学校教育の「国語」の問題として考えれば仰る通りだと思いますが……。
現代の政治家は、審議会に集めた専門家に諮問し、その答申をベースに政策を決めることが多い。けれども、世間では議会で専門家の主張に沿った政策を訴えた政治家が、政策の発案者として扱われます。テレビはともかく新聞は真の発案者を報道しているのですが、読者の大半はそうした記事に関心を向けません。
安土・桃山時代の武将:藤堂高虎さんは「城づくりの名人」として知られていますが、藤堂さん自身が優秀な設計士や石工や大工だったわけではありません。藤堂さんは「よい城」のイメージを持った築城組織のトップでした。藤堂さんのもとで築城の実務に当たった人物の名も現代に伝わっており、その道では尊敬と研究の対象となっていますが、大抵の歴史の本では藤堂さんが築城名人として紹介されます。
というわけで、まず、通説において主語が織田信長さんになっているのは、問題視するにあたらない。要約表現においては、沢彦さんの提案の良し悪しを判断した織田さんが名誉を総取りしてよいでしょう。
私なりに状況を整理すると、「井ノ口の新地名について、織田さんは沢彦さんの助言に基づき、発音しやすく文王の故事に由来する(という説明が成立しうる)岐阜に定めた」となります。ここからまず、「沢彦さんの助言に基づき、」の部分は社会的には重要でないので、省略可能。
さらに踏み込んで、「織田さんは周の文王の故事にちなんで岐阜と命名した」と表現してもよい、と私は考えます。ひとつの結論Cを導く2つの理由A、Bがあったとしましょう。たまたま実際の議論の過程においてAが先に登場し、その時点で結論が定まったとしても、その後より対外的な説明力が高い理由Bが見出されたなら、「理由Bにより結論Cを出した(理由Aは補強と位置づける)」と説明するのはおかしくない。結論Cが攻撃されたとき、その最強の盾となるのは理由Bだからです。
織田さんは3つの選択肢から音で「岐阜」を選んだけれども、それは仮採用に過ぎなかったのではないか。沢彦さんがろくな祝語(私は「祝い言」と同義だと解釈する)を用意していなかった場合、「それではダメだ。3つの選択肢にこだわらず、ゼロベースで考え直せ」と命じた可能性がある。仮採用の通り本採用されたのは結果論であって、祝語がどうあれ「岐阜」で決まりだった、という根拠は乏しいのではないでしょうか。
もともと井ノ口のあたりには岐山、岐陽、岐阜、岐府、岐阜陽などの地名があったとする史料がある。もしそれらの史料が正しいとすると、沢彦さんは文王の故事から3つの地名案を作ったのではなく、既存の地名から、きれいな「地名の由来」を創作できる3つを選んだとも考えられます。
岐山・岐陽・岐阜の「山」「陽」「阜」の意味するところはどれも同じく「小高いところ」「丘」です。「陽」のポイントは阜偏(こざとへん)にあり、つくりの方は装飾。ですから、沢彦さんの示した三案は、いずれも文王の故事に結びつけることが可能です。
岐阜の「阜」は孔子の生誕地である曲阜から取った」という説もあるそうですが、織田さんが岐山や岐陽を選んでいれば、「山」や「陽」のために、また別の由来が創作されたのかもしれません。