日本でたくさん石碑が建てられるようになったのは明治時代から。日本人が豊かになったこと、技術が進歩したことから、「集めたお金が余ったので石碑を建てる」なんて事例が登場するようになった。それで明治時代以降、海嘯(つなみ)がくるたび義捐金の一部などを投じて大量の石碑が建てられてきた。
石碑巡りの旅をしたことのある方ならご存知の通り、「此処より下に家建てるな」に類する文面が彫られた石碑は滅多にない。割合でいうと1~2%だったと思う。「地震が起きたらここまで逃げろ」という意味の言葉が刻まれた石碑の方がずっと多い。つまり、実際に被災した人々の98~99%は、高所移転したいとも、しなければならぬとも考えてはいなかったのだと思う。
岩手県の三陸沿岸などは,有史以来何度も繰り返し津波が襲ってきています。「明治三陸津波」では,釜石地区の6500人のうち4000人が命を落としています。
そんな歴史もあるので,例えば岩手県宮古市の丘の上には,明治時代の津波の鎮魂碑が建っていて,そこには「ここより下に家を建てるな」と書かれていたりします。しかし現在,この碑を無視するかのように,その碑の下には家が建ち並んでいます。
防災の啓蒙に熱心な方々は、姉吉の石碑が例外的な存在であることを隠して「先人の知恵」を持ち出すわけだが、褒められたことではあるまい。それでも片田さんは注意深く言葉を選んでいるが、畑村洋太郎さんのテレビ番組『失敗は伝わらない』での語り口は半ば詐欺的だ。
「此処より下に……」の石碑の文句を引用し、実際に三陸の海岸に行ってみると、あっちにもこっちにもたーくさんのこういう津波のことを書いた石碑があります
という。全くの嘘ではないが、じつに誤解を招く言い方ではないか。そして皮肉なことに、その石碑が建っているところより下に、人家がたくさん建っています
と続ける。その場面で表示される画像とキャプションはこうだ。
「此処より下に……」の石碑は海抜60メートル。相当に高い位置にある。姉吉の周辺の集落が、その石碑より低い土地に復旧したのは事実だが、上のキャプチャ画像に写っているのはその石碑ではない(→姉吉集落 大津浪記念碑)。どこの石碑なのかはわからないが、話題の石碑でないことだけは一目瞭然だ。
「地震が起きたら急いで逃げればいい」と考えて低地に街を復旧した人々が立てた石碑なら、それより低い場所に家があっても不思議なことは何もない。石巻市水浜集落のように、避難訓練の徹底によって生存率98%を実現した街もあるのだ。
Google Earth で見る石碑の上に建設された姉吉集落と、石碑の下に広がる千鶏集落。津波の爪痕が生々しい。姉吉集落に津波で流された家はないが、山を削らずに高所移転すると、街が発展しない。保育園や小学校も、低地に復旧した千鶏に作られた。姉吉地区でも、学校へ子ども3人を迎えに行った母親が亡くなっている。
千鶏の小学校は低い丘を削って作られており、少し高台にある。南三陸町では志津川の西岸の丘に高校、東岸の丘に小学校と中学校を南北に並べて建設されている。この志津川高と志津川中にはビデオカメラを持った避難者がいて、津波の様子を撮影した動画がネットの一部で非常に話題になった。山が海に迫る土地で学校が山を削って建設されるのは、どうしてもまとまった面積が必要なのに、他に土地がなかったことによる。
低予算で高所移転を進めると、別荘地のように山の傾斜を残すことになり、ふつうそれでは街は発展しない。経済の変化に応じて土地の用途や区割りを自由に変更できないと、街は時間を止めてしまう。そうしないためには、山を削っての高所移転が必要になる。だが、山を削るにはお金も時間もかかる。これまでの政府の歩みを見るに、おそらく高所移転はない。もしあるとしても、山を削らずに移転する形になるのだろうと思う。