3月21日の『クローズアップ現代』に、片田敏孝さんが登場。被災予想地域に暮らす人々(2007-04-16)という記事を書いたときに存在を知り、その後の活動にも関心を持っていたので、とくに興味深く拝見した。
僕も頭の中では、こんなこともありうるんだということは当然知恵としては持っていました。でも、そのレベルの状況想定を元にしてしまうと、あまりにも激しい状況が想定されますから、現実離れした対応が必要となってくる。そこで行政としては現実的な状況想定にして、それがハザードマップの形で表され、それに基づいて防災を進めてきたんですね。
「人命は地球より重い」なんていってみても、結局のところ、きわめて低い確率で起きることのために無尽蔵の予算を注ぎ込むことはできない。
津波は速い流れなので、防波堤で止めようとすると、運動エネルギーが位置エネルギーに変換されて一気に水が持ち上がる。ざっと1.5倍の高さになるので、15メートルの高さの津波は23メートルの壁がなければ防げない。津波が壁を越えると落下の衝撃で基礎を破壊し、壁ごと倒される危険もある。そうなればもう海水はどんどん入ってくる。
では少し安全を見て25メートルの壁を海岸沿いに張り巡らせることが可能だったか。それができれば、命が助かるだけでなく家屋の損壊もなかったはずだが。いや、それはもちろん無理なのだ。
避難計画にも同様の問題がある。避難所に逃げたが、その天井まで水がきて助からなかったという事例がある。だからといって、全ての避難施設を20メートル級の建物にできたかといえば、ここにも予算の問題が立ちはだかる。女川では鉄筋コンクリートの建物が横倒しになった。最悪の場合をどんどん考えていくと、現実的には打つ手なしということになってしまう。
防災といえど際限なき安全の追求は不可能であって、可能性の高い範囲内で対処していくしかない。今回のような「想定を超える災害」が起きると専門家を責める人が出てくるわけだけれども、「可能性がゼロか否か」という問いと、「災害対策の想定の範囲内かどうか」という問いのズレには注意しなければならない。
この話題もそうだ。はてブを見ると、防波堤の意義を見直す声がワッと出ている。0か1かという考え方をするなら、0でなかった以上、1の側に分類すべきというわけか。
だが予算には限りがある。仮に100億円かけた防波堤で浸水が6分遅れて100人が助かったとすれば、1人当たり1億円になる。予算には限りがあるので、1000万円で1人を救える方法があるなら、防波堤の10倍よいということになるだろう。もっとも釜石の防波堤は田老の防潮堤と異なり、まず漁業に必要なもの。それがついでに人命保護にも役立ったのだと考えれば、追加負担ゼロで100人助かったという話になるわけだが……。