私も以前はそう思っていた。いまは、そもそも「国旗に敬意を払う」こと自体に疑問がある。
国旗は国家の象徴であり、国旗に敬意を払うことは国家に敬意を払うことだ。だから例えば、国家の解体を目指す立場であれば、どんな国旗であれ、敬意を払う理由はないだろう。あるいは、国家というものを人々の幸福を実現するための手段に過ぎないと考えるならば、国家の必要性を認めるとしても、やはり右派が求めるような種類の「敬意」を払う理由はない。
国旗や国歌に対しては敬意を表すべきだよ。それは国民として自然なこと。自国のシンボルに敬意を持てない人間が、他国民とまともにつき合えるだろうか。国旗や国歌の内容に問題があると考えるなら、堂々と主張し、変更すればいいだけのこと。
そんな「べき」論に固執するなら左翼の主張を理解できるわけがない。理解する気がないなら、そこまでの話。elm200さんはこの件に関して多数派なので、それで人生損することもないでしょう。
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私は相互の利益を考慮して「あるものは利用していい」とも考えるから、国家体制を否定する者が国家から支援を受けることを「おかしい」と思わない。これをダメだというと、多数派が圧倒的に有利な社会を構築して「多数意見に従わないなら独力で何とかしろ」と脅迫するのと同じことになってしまう。私はこうした「押し付けられた非対称戦」を肯定しない。否応なくそのような戦いに巻き込まれた者には、相応のハンデがあって然るべきだと考える。
だからいわゆる「君が代不起立訴訟」で最高裁が原告側の上告を棄却したのは、穏当な判決だとは思いつつも、「うーん、そうか……」と残念にも思った。
まあ、ね、「国歌斉唱の際に起立しない」という立場に理解を示す人がそれなりにいたから訴訟になったのであって。例えば「着任挨拶の際に起立しない」という思想信条の自由を訴えても、門前払いされたろう。少数派の人だって、もっと少数派の思想信条なんか平気で踏みにじって恥じることがない。そうだとすれば、所詮は原理原則の話ではなく、程度の問題に過ぎなかった。
ならば、上告が却下されたことに不思議はない。どこかに線を引くのだとすれば、2/3以上の人が「それでいいんじゃないの」というあたりになるのが自然だろうから。
左翼が「日の丸」を攻撃するのは、戦術だと思う。私の理解では、左翼は国旗そのものを否定するはず。だけど、そんなことをいっても世間がついてこないから、「日の丸は国旗にふさわしくない」といって日本の国旗を空位にすることを狙っているのだと思う。
左翼の主張する民主主義は決して多数決ではないので、みんなの意見と関係なく、正しいものは正しい。が、そう叫んでも世の中は少しも変わらないから、戦術として、より大勢に響く言葉を探し続けてきた。その結果、反日の丸運動に賛同する人の少なからずが、戦術として出てきた主張に同調する人たちになっている。
それでも、反日の丸運動の本意は、国旗そのものの否定。運動に賛同している人々の多数意見は違っているとしても、それがコア層の考え方なので、分派はともかく本流が新国旗の制定に向かうことはない。