趣味Web 小説 2011-07-03

再論:オンラインブックマーク禁止問題

何度でも同じことを書く試み。

相手が「嫌だ」「やめてくれ」と明言していても、それでもブックマークしたいか。「したい」場合もあるだろう。だが、「嫌だという人の気持ちを踏みにじってまでしようとは思わない」場合の方が多いのではないか。法律上許されていることであっても、人の嫌がることをする際には、立ち止まって考えたい。

「そんなことを嫌がるなんておかしいよ」と説得を試みるのはいい。でも、説得に成功するまでの間、相手は傷ついている。その痛々しい姿を見て「自業自得だろw」などと嘲笑する人間にはなりたくない。

どんな理由や、あるいは誤解があるにせよ、文化・価値観の違いがあるにせよ、他人の痛みを無視してはいけないと思う。そうした冷酷のために、自分もどれだけつらい目に遭ってきたか、よく考えたい。「自分の声だって誰にも届かなかったのだから、このバカの声だって誰にも届かないし、それでいいんだ」なんて考えてしまったら、自分自身だって永遠に救われないのではないか。

「自分の大切な大切な自由にケチをつけられた痛み」に我を忘れてはいけないと思う。「法律上、自分は悪くない」といって目と耳をふさぐのではなくて、いま目の前に痛みを感じている人がいる現実をきちんと受け止めた上で、「今回は、それでもブックマークします」か「今回はブックマークを控えます」かの選択をしたい。

自由を無駄遣いすれば、いつかその自由は失われる。「できる」から「する」のは文明人の態度ではない。「できる」けど「する」か「しない」か考える、そうした謙抑の姿勢を失えば、自由は狭く限定されたものになっていってしまうと思う。

補記:

某氏も「禁止」という言葉に強制力がないことは認めている。ブックマークされたくない側が「禁止」といっても、ブックマークする自由は全く侵害されない。

だから結局、オンラインブックマーク禁止問題とは、「禁止といっているのにブックマークされて傷ついた」VS「自由な行為に文句をつけられて傷ついた」という精神的被害の言い立て合いである。ちなみに法律は、「オンラインブックマーク禁止と叫ぶ自由」と「それでもブックマークする自由」を、ともに認めている。

自由を無駄遣いする危険を指摘するなら、言論の自由が制限される可能性に触れず、ブックマークする側の自由が制限される危険性ばかりいうのは片手落ちだ。でも、この問題で言論の自由が制限されるとは考えにくい。ゆえに私は「より弱い自由に依拠している側が、いかに自由を守り抜くか」という捉え方をしている。

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