すさまじい嘲笑と侮蔑の嵐。個人的には、笑えない。
断片的に聞きかじった話を人に伝える場合、適当に行間を補わないと「話」にならない。その際、推測で補った部分は、自分の推測だとわかるように話さねばならないのだが、だんだん面倒くさくなってきて、ルーズになってしまう。それで、あとでトラブルになる。
あるいは、どこかで聞いた話を右から左へ伝達しただけのつもりだったのに、「それ、誰の情報?」と突っ込まれた途端に、「どこかで聞いたという記憶」がパッと消えてしまうことがある。「そんなバカな」と思われるかもしれないが、私は、そういうことがよくある。とんでもないことだが、現実だ。
まあ、そもそも論として、「知人から聞いた」なんてのは信頼できる情報とはいえないわけだが、その頼りないソースすら、追及されたら消えてしまうような話を、私はしている。私のいうこと、書くことなんて、基本的には全て創作と思っていただいたほうがよい。
絶対確実だと自信を持っていえることなんて、ほとんど何もない。まして予測不能の話題が降ってくる雑談の場では、頼りない記憶からものをいうしかない。ならば黙っているのが安全だが、気楽な雑談の場で黙り続けるのはキツイ。いい加減な根拠でいい加減なことをいうリスクは承知しているが、黙りこくれば即座にコストが発生するから、私はついつい、安直な方向へ逃げてしまう。
だから私の場合、帰宅してから今日の雑談で自分が話したことのソースを確認するのは、珍しいことじゃない。坂井美絵子さんをバカにしている人は、そこのところどうなの。みんな確実なことしか喋ってないの? ついつい断定口調でいっちゃったけど、じつは根拠が怪しかったことって、ないの?
Twitterでも、うろ覚えの話を書いて、後で自分の記憶を疑って、ソースが見つからないので削除したこと、私はあるよ。「勘違いでした」とTogetterのコメント欄では謝ったけど、「勘違いじゃなくて捏造だろ、ウソで他人を批判するなんて最低だな。ちゃんと謝れ」と詰め寄られたら、どうにもならない状況だった。
「悪意はなかった。本当に単なる記憶違い」といいたいのだけれど、スイッチが入ると、「いいから謝れ」一辺倒になって、みんな全然、話を聞いてくれない。坂井美絵子さんも、同じような感じなんじゃないかと思った。本当のところはわからないが、わからないなら、とりあえず好意的に解釈しておきたい。
単なる思い込みが、いつの間にか自分の中で「根拠のある話」に摩り替わってしまうことがある。坂井さんも、「根拠はないけど自分は信じていない、不安だ」といったなら、大勢に批判されるような話じゃなかった。でも、何かしら根拠があったような気がしてきて、つい断定的に書いてしまったのだろう。
どこかで聞いた。そんな気がする。きっと、自分以外にも同じ話を聞いた人がどこかにいて、それを辿っていけばなにかソースがあるんじゃないか。そういう発想、することない? 私はあるよ。自分が聞いたのは伝聞情報なんだけど、遡っていけば何かきちんとした根拠があるはず、そう信じたい、ってこと、あるよ。
いうだけいってからソースを探すのって、たしかに奇妙な感じがするかもしれない。だけど、会社でも突込みが入ってから資料を補充して対抗するとか珍しくないし、実際のところ、よくあることなんじゃないの? 違いますか?