かつて、私(井上)は、薬学部教員や薬剤師に、
「薬学部での教育って、薬とは無関係なことが多いけれど、仕事に役立っているか? たとえば、膨大な時間をかけて実験技術を教え込んでいるけれど、薬剤師が薬局や病院で実験をすることなんてありえないじゃないか」
と聞いたところ、
「実験技術は、無菌調剤や秤や分包機の操作に役立っている」
という、まことに無理のある答えしかできなかった。そんなものは、せいぜい3日もあれば習得可能だ。
リンク先は2009年の記事。今春、東日本大震災の海嘯(つなみ)に分包機をさらわれてしまった病院に、未分包の薬剤が配給された。それで、便利な自動機に頼らず原始的な環境できちんと分包すること実習が、初めて現場で役に立ったという話を聞いた。実際のところ、3日で慣れるくらいの作業だったそうだが……。
私大薬学部の学費は6年で1300万円近い。ドラッグストアで客のいうままに薬を手渡すだけの(というか、ゴチャゴチャいわずにスッと渡す方が客に喜ばれるような)薬剤師になるために、これほどの費用と時間を要するのは、ヘンじゃないかと思う。あのような仕事は収入もそれほど多くはないだろうし、学費を取り戻すだけでもたいへんなことだ。准薬剤師みたいな資格がほしい。
処方箋を受け付けている薬局でも、機械的に処方箋通りに薬を出す作業をしている人が少なくないように見える。薬剤師は確認と監督に専念して、定型作業は准薬剤師が行う、といった役割分担をできないか。
高校生の頃、隣の家に薬剤師さんがいた。子どもが大きくなったので近所の薬局で働くようになったが、担当の仕事はレジ打ちや薬の説明書きの印刷などだった。基本的に調剤などはしないが、印刷された薬の説明を読んで手渡す際に薬に触れるから、やっぱり薬剤師の資格が要るのだ、というような話だった。
この人を薬剤師にするために、私的にも公的にも、いったいどれだけのコストがかかったのか、と考えずにはいられなかった。
あまりに自然な欲求は、それが満たされても、満足感がない。現代人の「一人になりたい」という欲求は、「もし素敵な人がいたら一緒に暮らしたい」という欲求の陰に隠れているので、「素敵じゃない人と一緒に暮らさずにすんでよかった!」という幸福感が得られない。
バブル崩壊後にも実質GDPは平均的には増大を続けていて、しかし生活水準が上がったようには思えず……というパラドックスは、非効率な「一人世帯」が増えていることで説明できるのではないか、と私は思っている。「非効率な生活スタイルを選択する自由」を拡大するコストが、経済成長の果実より大きかったとすれば、生活水準の低下と経済成長は両立しうる。
経済成長の果実は、社会的な浪費によって、主観的な幸福を増やすことなく消えていく。明治時代の人口爆発、平成の「お一人様」増加ほどではないが、薬剤師がレジ打ちをやっているのも「浪費」だと思う。