趣味Web 小説 2011-08-12

「負ける」つもりでやる議論

最初からギャラリーの支持獲得合戦においては「負ける」つもりでやる議論というのもある。「こちらの主張をきちんと理解だけしてもらえたら満足」というケースだ。自分と異なる価値観に基づく主張に同意はできないが、理解はできるはず。

しかし少なからぬ人々は、理解と同意が癒着していて、同意できない主張を理解できない。だからそうした人々を相手に「同意されないことはわかっているが、どうか私の主張を正しく理解して、その上で不同意といってほしい」といっても、全く話が通じない。それでも、自分の主張を、より理解されやすい形で書き残しておくことは有意義だと思う。

自分と価値観の違う方々は、こちらの主張をとんでもなく誤解してくださることが多い。しかし、それらの誤解の多くは、たしかに自分の言葉の一部が発端になっている。言葉の定義の問題だったり、多くの人がその言葉から連想する内容が、私の伝えたいこととズレていたり。そこからスタートして、最後には私が考えたこともなかったようなことを、私の文章の真意として読み取って、非難なさるわけだ。

人は自分の第一印象を守ろうとするので、最初に「これはひどい」と感じると、あれもこれも悪い方に解釈しようとする。やられた方は不愉快だし、こういう状態の人には何をいっても伝わらないことが多い。それでも、何とか理解をしてほしいという気持ちの高まりを、何らかの成果に結びつけることは有意義だと思う。

ふだんは気楽に書き飛ばしているのだけれど、誤解を解きたいと願う状況では、自分なりに知恵を絞ることになる。知恵を絞っても、たいしたものは出てこないが、それが実力なのであって、「こんなものか……」と自己認識も深まる。ともかく、ベストを尽くすに越したことはない。叩きの流れのできた場ではどうにもならなくとも、落ち着いてから別の場で苦闘の成果を出してみたら、かつての苦労が嘘のようにすんなりと大勢に理解されて「報われた」と感じたことがある。

とはいえ、理解と同意を分離できない人への応答は非常に消耗する。基本的には、割に合わない。黙っているのはストレスが溜まるが、それでも応答するよりはマシ。上に書いたことは、じつのところ、相手を見誤って始めた議論を打ち切る際に、「無意味ではなかったよな」と自分を慰めるための言葉だったりする。

補記:

あらためて注記するが、自分の意見をのっけからひどく「誤解」してくださる方々は、たいてい自分と価値観を異にしている。だから、誤解を解いた先にも同意は得られない。

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