趣味Web 小説 2011-08-12

「議論に勝つ」ための基本戦術・他

1.

俺は主張やそれに関する議論というのものは、ソースのないものが本物だとずっと思っている。「ソースは俺」としか言えないものこそが、まさに俺の主張であり、自分が主張する価値のある主張だ。ソースにこだわる議論というのは、主張ではなく、単に知識の量を競っているだけなのだ。

「主張」というから首を傾げるので、「価値観」や「考え方」といってくれたらすんなり受け入れられる。あるいは、単にカッコ書きにしてくれるだけでもいい。

以下、関係あるような、ないような話。

2.

たいていの主張は、何らかの世界認識と価値判断から成り立っている。

対立する意見を押しのけて自分の意見を通したい場合の戦術として、自説のよさを訴える方法と、対立する意見を潰す方法がある。合わせ技で、自説が対立説より優れていることを示す、というものもある。

以下、対立説を潰すケースについて考える。

対立説を論破したい場合、世界認識の誤りを突く方法と、価値判断を批判する方法がある。

ギャラリーの支持を得ることにメリットがあって、自分の価値観がギャラリーの多数派の価値観に近いという自信があるなら、対立説を形成する価値判断を批判する戦術を取ってもいい。

でも安全策は、世界認識の誤りを突く戦術だ。価値観はしばしば「色眼鏡」と形容されるように、じつは価値観が違えば世界の見え方が変わってくる。価値観が事実を歪めてしまうことは非常に多く、みな多かれ少なかれ自分の議論に都合がいいように世界認識が歪んでいる。だから、注意深く観察すれば、対立説を形成する世界認識に瑕疵を発見できることが多い。

当然、自分の世界認識にも歪みはあるので、手強い相手なら、必ずそこを突いてくる。ギャラリーの支持獲得合戦においては、自分の誤りはケアレスミスと印象付けてサッサと修正してしまい、相手の誤りは主張を揺るがす本質的なものだと訴えていくのが、基本的な戦い方になる。

世界認識を完全に共有できたとしても結論に差異は生じるので、自説と対立説との本質的な対立点は価値観の違いにある。だが、双方の価値観がいずれも「常識」の範囲内にある場合、ギャラリーは価値観の差異をていねいに検討することを厭い、「世界認識に誤りの少ない側の主張が正しい」と結論付けようとする。

そんな状況で価値観の話を長々とやると、薮蛇になる。誰の主張にも少しずつ「常識はずれ」の部分がある。自分の価値観を明晰に語らず、相手の価値観の「常識はずれ」な部分を強調して批判するのが、ズルいけど有効な戦術になる。

……と書いてはみたけど、私がこうしたことを実践している(or実践できている)かというと、そんなことはない。

3.

価値観の異なる相手を、議論を通じて説得するなど、まず不可能だ。議論には、それでもなお相互理解の促進という目的が残る。だが「価値観のズレを双方が強く認識したことが、その後の人間関係の妨げになる」ことも少なくない。こうしたトラブルは、周囲の人々にとっても迷惑だ。

だから多くの人は、議論をしない。議論したがる人にも、いい顔をしない。私なども、気に食わない意見を見聞きしたら、話題を変えてやり過ごすのが習い性になっている。

もちろん職場では議論に参加する。仕事では、組織として何らかの結論を出す必要がある。誰かの判断に任せるか、自分も議論に参加するかの選択なら、議論を希望する人が少なくない。また仕事の話題に関しては、価値観のズレが小さく、争点は世界認識に集中するから、議論を通じた説得・納得が実現しやすい。

ネットなどでの議論は、意義がよくわからない。他者への理解を深めたいなら、ていねいに質疑応答を重ねる方がよい。やはり自分の主張も理解されたい、ということか。でも相手は自分に興味がない。だから、相手を焚きつけて自分を無視させまいとする……これなら納得はできるが……。

あるいは、ある種の「場」には議論の見物を好む人々が集まっていて、彼らの支持を集めることができたら「勝ち」というか、「胸がスーッとする」みたいな感覚がある。これも議論の動機付けになる。

ただ、本当にギャラリーの支持獲得合戦をやりたいなら、議論を志向するより、言いっ放しの方が高効率。議論を続けても価値観の溝は埋まらず、説得も論破もできない。大団円がないので、ギャラリーは飽きてしまう。議論自体が注目を集めることは滅多になく、意見の応酬にメリットは乏しい。

4.

メカAGさんが「主張」といっているのは、価値判断の部分だろう。「議論=価値観の交歓」などと定義すれば、たしかに世間の議論の大半は「議論ではない」。ただ、メカAGさんの記事からは、特殊な言葉の定義をした意味が見出せない。文意が読み取りにくくなっただけで、メリットがないと思う。

議論の多くは、もっと具体的な話題を取り扱っており、各スピーカーの主張は、世界認識と価値判断からなっている。この場合、世界認識に誤りがあれば、価値判断とは関係なく、その主張は否定されることになる。「情報源は?」という問いは、世界認識の怪しさを突くことで、主張を叩く戦法だ。

私も、議論が世界認識のすりあわせに終始し、とうとう何も話が進展しないまま物別れになることにイラ立つことはある。だが価値観対立を前面に出しても、有意義な議論にはなりそうにない。

価値観の優劣を判断する基準は、ないに等しい。ギャラリーの多数決によって「場」における社会的な正誤が決まるのがせいぜいだ。ギャラリーがいなければ、それすらない。となると、議論も言いっ放しも大差ない。言葉を尽くしても、お互いに持論を譲る理由は何もない。だから何の結論も出ない。

5.

日常生活では基本的に「議論しない」ことにしているが、5年前に書いた通り、ウェブでの「議論」にも疲れた。自分は説得されないし、自分が他人を説得することもできない。同意は求めないが、誤解・曲解くらいは何とかしたい。だが、それもできない。

人に理解されたいと思うから泥沼になる。伝わる人には1回で伝わる。1回で伝わらなかった相手のことは気にしない方がいい。相互理解は諦めて、自分が一方的に相手の意見を理解して満足するなら、面倒に巻き込まれずに済む。他者の主張を理解できた気になるコツは結論オリエンテッドな議論(2006-12-12)に書いた。

そんなわけで、「異論・反論への応答は1回まで」と決めて久しい。年に数件の例外はあるが、近年はだいたいそういう風にしてきた。それでも誤解・曲解はムカつくし、ひどいのになると私が全く書いてないことを「書いている」と公言するウソつきもいて、プッツンくる。精神衛生上、(状況は変わらないとしても)怒りを表現する方がいいのかもしれない。

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