最近、議論せずとも異論をぶつけてくる相手の考え方が理解できる(ような気分である)と書いたところ、「そのコツを教えてほしい」と要望が寄せられました。以下、回答いたします。
結論オリエンテッド(結論第一主義、結論志向)という考え方を理解することが、唯一最大のポイントです。
誰の主張に対してであれ、明確にNOを突きつける人は、立場のハッキリした人だといえます。従来、こうした相手の考え方を理解するために発せられてきた言葉は「なぜ、そう考えるのか?」でした。相手の主張の背景には「理由」や「根拠」があるはずだ、というわけです。
しかし結果はどうだったでしょうか? 要求に応じて提示された論拠をていねいに潰していっても、相手の主張の根幹はブレないことが多かったはずです。「でも、でも」といっそう意地を張り、ますます手がつけられなくなっていった記憶、皆様にもあろうかと思います。
逆に、枝葉末節にこだわりネチネチと言葉尻をあげつらう論敵に暗い炎を燃やした経験もあるでしょう。補論を重ね持論の正当性をあらためて確認しているこちらを嘲笑うがごとく、「論破されているのに見苦しい」……それはこちらの台詞だ、といいたい。決め付け、悪意の解釈、ワザとやってるだろう、この嫌がらせ。
こうして最初は紳士的に始まった議論も、延々と続く限りは内面のドロドロ化を避け難い。なぜか?
それは、人々が「結論オリエンテッドな議論」をしているからです。(……と「考える」ことで疑問は解消されます)
「事実」を共有できても、「価値観」が異なれば解釈は違うものとなります。意見対立は究極的に解決され得ないケースが多い、と見てきました。
多くの人が説得の第一歩として、相手が反対する「理由」を訊ねるのは、同じ人間として根源的な価値観は共有されていることを信じているからです。そしてゼロ地点からひとつずつ議論を積み上げていけば、結論を共有できるはずだと思っているのです。
しかし現実には、議論を掘り下げていっても「価値観」はなかなか見えてこないのでした。手強い反論があればアッサリと諦め、別の手を繰り出してくる。これではタコの足切りです。本当の足はどこにあるんだ?
そして私は気付きました。そうか、タコの足は頭から生えてくるんだ。相手が絶対に守りたいもの、彼/彼女の価値観、ひいては人格を体現しているのは、この議論の「結論」だったんだ、と。
多くの人は、たいていの問題について、自らの立場を持っていません。まず「無関心」、次に「よくわからない」、続いて「どちらともいえない」ときて、ようやく「賛成」とか「反対」などということになります。こうした人々は、ふつう、紆余曲折を経てようやく自分の意見を定めても、それは当座の在所に過ぎません。ちょっとしたことでまた根無し草となってゆらゆらと曖昧の海に泳ぎだします。
そうなる原因は、各人の持つ価値観と、現実の諸問題とが遠いことです。
平和な社会を望む、といった漠たる要求と、だから靖国神社に首相が参拝すべきとかすべきでないといったテーマは、たいていの人の頭の中で、まっすぐには結びつきません。遠い遠い道のりを歩く間に、あっちから誘われ、こっちの声を聞き、そうしてようやく現在地点にたどり着くわけです。頭の中に賛成・反対、両方の材料があって判断保留の状態。
「ハイ、あなたの意見をどうぞ」そんなこといわれても困るのです。あるいは、仮に「賛成」側に身を置いたとしても、それは現状のバランスを前提とした結論。「反対」側の情報(反論)にたくさん接してみれば、途端に気持ちがグラつきます。
そんなわけで、ほとんどの人はほとんどの問題について議論を忌避します。動機もなければコストの負担を肩代わりしてくれる存在もないのですから。
「理由オリエンテッドな議論」は、知的好奇心にあふれる人同士の幸運な出会いなくして継続不可能です。また多くの人の持つ「価値観」はたいてい深い深い階層にあり、高度に抽象化されているので、滅多なことでは激突しません。したがって多くの意見交換は対話のレベルで極めて短期間に処理されます。
こうした日常体験のために、人々は「結論オリエンテッドな議論」というイレギュラーへの対応を誤るのです。
いくつか「なぜ」を遡ってから「これ以上は問答無用」というケースと、最初から「門前払い」するケースとの間に、本質的な差異はありません。倫理は倫理でしか説明できず、世界から倫理を取り出す最初の一歩は、無根拠な断言でしかありえないのです。
様々な議論を眺めてみた経験からいえば、「なぜ」を突き詰めてスタート地点に辿りつくのは稀です。2~4階層掘って満足される方が多いようですが、疲れたか飽きたか。何もかも曖昧なままです。その点、最初から「門前払い」するケース
即ち結論オリエンテッドな議論は、明快です。
以上より、冒頭の質問に回答します。
議論せず(=説明を求めず)に異論を理解するコツは、理由ではなく結論に着目し、素直にそのまま受け止めることです。泥沼の議論を読み解くコツも、同様です。人は結論オリエンテッドに発言し、議論すると「みなす」。この発想の転換が、閉塞感を打破します。
mixi のコミュニティをまとめて本を出すことをコミュの管理人が決めたら、他人の金儲けが許せない人々が怒り爆発。ありがちな嫌儲問題です。掲載拒否といえば不掲載になるのだそうで、著作権は論点にならないはずが、なぜかそのあたりも槍玉に。
印税を全額どこかに寄付すればいいらしい。なんで? と訊ねるのは無意味です。「これは許せない」が価値観の基礎であり、思考の出発点なのだから。形式的に理由を問うても、結論から逆算して回答が構築されるだけ。そんな「理由」を潰したところで、本質的な反論にはなりません。
以下、問題文のみ。回答は不要でしょう。書いてある通りに読めばいいのです。