いろいろご反響をいただいた中で、私の意図とかけ離れた読み方も散見されました。
とくに目立ったのが「結論オリエンテッド」を倫理的劣位者のレッテルとして活用しようと考えた方々。彼らには「結論先行」という既存の言葉をご紹介したい。
次に気になったのは「結論オリエンテッド」思考の活用領域は議論の場に限定されると考えた方々。これは私の書き方が悪かったかもしれません。
結論オリエンテッド(結論第一主義、結論志向)という考え方は、読解の技術です。あなたが「理解し難い主張」に向き合わねばならない全ての場面で役立ちます。
通常の「理解」は、理由オリエンテッド思考に基づき、結論を理由に因数分解することで実現されます。多くの場合、抽象的な結論は多くの具体例から導かれ、具体的な結論はいくつかの抽象的な「べき論」から構成されることが明らかとなります。
なぜ結論を理由に因数分解すると、理解が進むのでしょう? それは、ある「場」に参加する人々の多くが同様の解釈を示す具体例と、同じく大多数の人々が共感する抽象的価値観が存在し、説明を求められた人々が慎重にそのいずれかに当てはまる理由を提示するよう心がけているためです。「理由の説明」とは「伝わる言葉で語り直す努力」なのです。
「努力」と書いたことに注意してください。頑張って書いた「理由」が理解されず、「理由の理由を説明せよ」と展開するケースは、それほど珍しくありません。仮想的には「理由の理由の理由の……」と無限に続けることが可能ですが、現実には2~4階層掘ったあたりで力尽きます。ふだん私たちは、深い階層にある理由を無意識の領域に任せており、出発点を曖昧にしたまま思考しているからです。
どんどん理由を遡っていくと、いつしか人々は結論から逆算して理由を考案するようになります。このようにして発見された理由を、ウソと決め付けるのは早計です。無意識世界の探索は困難です。サーチライトで照らしても全体像は杳としてつかめず、その深淵を見通すことは誰にもできません。
さて、少なくとも日常会話において、共通の結論が必要なケースは滅多にありません。だから賛成や共感は不要です。お互いに主張を理解しあうことができたなら、十分でしょう。いえ、もう一歩後退して、せめて自分が相手の意見を「わかる」と思えたなら、まずまず満足していいのではないでしょうか。
いま、問題は何でしたっけ?
そう、「理由を突き詰めていっても、ちっとも理解にたどり着かないケースがある」ことでした。
では発想を転換しましょう、というのが私の提案です。理由を考えて「納得」しようとするから理解できないのであって、結論をそのまま素直に読めばいいではないか、と。そして結論オリエンテッドという考え方で相手の主張を読み直すならば、驚くほどすんなりと思考の流れがよく見えてくることが多い。
理解と共感は別だ、と自らに言い聞かせても、気に入らない結論を受け入れるのは大変なことです。しかし異文化との交流は、この苦難を乗り越えた先にしか実現し得ないのではないか、私はそのように考えます。
先日の記事では、最初に誰の主張に対してであれ、明確にNOを突きつける人は、立場のハッキリした人だ
と規定し、そのような相手の意見を理解するための手法として「結論オリエンテッド」思考を解説しました。そして多くの人は、たいていの問題について、自らの立場を持っていません
と注釈しました。
私は「理由の説明など要らない」という立場を取りません。
最終的に異なる結論に至った相手と延々議論を繰り広げても「納得」する・させることは難しい、と私は考えますが、まだ立場の定まっていない人に多くの思考材料を提供することは、社会を豊かにするものと信じます。一見、不毛な議論も、それを読む大勢の読者の存在を視野に入れるなら、有意義なものかもしれません。
ただし徳保隆夫、いよいよ死に体か(2006-12-07)に書いたとおり、経験上、議論モードの記事は読み飛ばされる傾向があります。
共通の土台の上に意見の構築を目指す議論の処理には「理由オリエンテッド」思考が、結論の衝突からはじまる議論の処理には「結論オリエンテッド」思考が有効です。(76字)
私の提案には「現実をよく見よう」という(いつもの)主張が隠されています。本当に「理由」は「結論」に先行するものだろうか? 必ずしもそうとはいえない、との観察があるならば、結論を保持して理由を交換した相手を硬直した物差しで測って追い詰め、勝ち誇る愚に気付いてもいいはずです。
しなやかなコミュニケーションを心がけたいものです。