趣味Web 小説 2006-03-12

哲学の初歩:質問の形式、納得の構造、第一歩の選択

補足をひとつだけ。

「なぜ二歩はダメなのか?」という問いには、いろいろな回答があると思う。それ自体は、回答不能な問いではない。けれども、例えば「ルールだから」「ルールなんか守らなくたっていいじゃん」「それじゃゲームにならないでしょ」「ゲームにならなくたっていいじゃん」「よくないよ!」「なぜ?」「楽しくないでしょ」「楽しくなくたっていいじゃん」というように、どんどん根拠を疑っていくことができてしまう。これは「なぜダメなのか?」と価値観を問うているからです。

これに対して、「二歩というルールが作られ、支持されてきた経緯」といった事実を問う質問なら、回答は難しくない。「多数派の価値観がルールを作る。二歩はゲームバランスを壊すと考える人が多い。また、たいていの人はバランスのいいゲームを好む。そのため、二歩というルールが作られ、受け継がれている」といったところ。いいとか悪いとかではなく、単に事実はこうだ、と回答できる問いなら、無限後退はない。

質問→回答→納得、ふだん生活している範囲では、とくに疑問を感じないことだろうけれど、よく考えてみると不思議な現象なんですね。だって、単なる事実の確認ならともかく(本当はここにも難しい問題があるのですが割愛します)、価値観や社会のルールは、いくらでも「なぜ?」と根拠を疑っていくことが可能であり、どこまで突き詰めても決定的な回答は得られないはずだからです。誰とも異なる価値観の持ち主は、どこまで根拠を示されても、永遠に「納得」できないことになる。

「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いに対して、決定的な答えはないものの、特定の人を納得させることは可能かもしれない。その人の持っている価値観から、殺人を否定する論理を組み立てることができればいいのです。しかし全員が共有できるのは「事実」のみですし、事実から価値観を導くことはできません。

特定の結論を導くためには、「なぜ?」という問いに対して、どこかで打ち切り宣言を出し、無根拠な断言をする他ないわけです。となると、いくつか「なぜ」を遡ってから「これ以上は問答無用」というケースと、最初から「門前払い」するケースとの間に、本質的な差異はありません。倫理は倫理でしか説明できず、世界から倫理を取り出す最初の一歩は、無根拠な断言でしかありえないのです。

ただし、最初の一歩は慎重に選ぶべきですね。だって、その一歩に根拠がないということは、それが最上位の価値概念ということになるからです。特別な事情がない限り、「公共の福祉」のような曖昧なコトバを第一歩に使われることを勧めます。

関連記事

なぜころ問答に対して、価値判断を抜きに「現状を整理する」という形で説明を試みたのがこの記事。現在の日本の社会では、殺人を禁止したいと考えている人が多いから、殺人の禁止が社会のルールとなっているのだ、という説明です。結局のところ、殺人がいいとも悪いともいっていないのがポイント。倫理を排したら、こんな回答しかありえないわけです。

Information

注意書き