大島保彦先生は1998年の千葉大学の講義「倫理学A」で、「人は人を殺していい」と説明されました。ただし、殺されたくない人々には、殺されないよう努力する自由がある、とも。
私はこの説明が最も簡明かつ確実なものと考えていまして、以降、ずっと援用させていただいてます。
自由主義国では常に「殺人の自由」と「殺人を阻止する自由」が激突しているのですが、基本的に後者の支持者が圧倒的な多数派なので、法律で殺人が禁じられ、殺人者には大きなリスクが科せられ、学校では殺人は悪だと教えられます。ただし殺人=悪と一義的に考える人々は多くないので、死刑執行人は罪人にならないし、正当防衛も認められる。過失致死と殺人は区別される。立てこもり事件の犯人を狙撃した警察官は無罪。北朝鮮の工作船を撃沈し船員を全滅させた海上保安庁職員も無罪。
これらの社会的な枠組に倫理的な矛盾があっても、全て各事例に対する多数派の判断として統一的に説明できます。結論の選択肢より理由付けのバリエーションの方が圧倒的に豊富なので、ケースAの殺人を許容する側も拒絶する側も統一見解を持ちません。よってケースAの多数派とケースBの多数派は一致していません。Aを許容するならBも許容すべきだ、といった主張に普遍性がないのです。
この手の問題について、個々人に「なぜ」と問うていっても結論は出ません。マクロで状況分析し、結果を受け入れる他ないのだと思います。
生まれましたよ佐藤さん!元気な娘さんです!でもちょっと泣き方が癪に障るので床に叩き付けて殺しますね。はい死亡。ははは。
明らかに無抵抗な人間にも『殺されないよう努力する自由』があるのであれば、抵抗しない事は自由を放棄した事に置き換えられるので、別に殺しても悪とは考えられない。日本も遂にヨハネスブルグ級の殺人事件発生率に到達出来そうです。
自分を殺されたくない人は、他人が殺されることをも座視しない。私個人の無力さを許容する人は、他人の無力さを否定しない。自分が危機に陥ったときに他人の助けを必要とする人は、自分もまた他人を助ける必要があることを理解しています。殺人を阻止する自由は、原点においては個人に従属しますが、個人の集まりは社会となり、多数派の願いは社会制度に結実します。
多数派は価値観を異にする少数派を弾圧することができます。なぜなら、それを止める力を誰も持たないからです。他人がどうなろうと知ったことじゃない、という価値観の持ち主が多数派にならない限り、多数派の意に沿わない行動をとる者を攻撃し抑圧する社会制度は維持され続けるでしょう。
本質的に人間は自由です。しかし当然、自由と自由は衝突します。「ある自由を抑圧する自由」があるためです。基本的人権を尊重する人々が多数派を構成する民主主義社会において、この問題は多数派による「数の暴力」が解決します。ではそのような社会において、なぜ少数派への攻撃・抑圧が現状程度にとどまっているのか。それは、少数派にいくらかの共感・同情を寄せ、また自分が常に多数派の価値観に共鳴できるとは限らないと考える人が多いためでしょう。