趣味Web 小説 2011-08-29

安直に「ありえない」という人々

1.

採用面接の実況ツイートの内容が批判を浴びたが、じつはそのツイートは創作だったのだという。はてブやTwitterでの反応を見ると、「ありえない」「信じられない」と公言する人が大勢いた。

疑いの気持ちを持つのは自由だが、それを公言したら名誉毀損になるかもしれない……と不安に思わないのか? 私などは、このブログで実記風の書き方で創作をたくさん書いてきたから、「作り話でした」といわれても、違和感がない。そして創作を前提としてさえ、「誤解を招き会社の名誉を毀損したのが問題」というに止まらず、「創作でも内容的にアウト」という意見まであったので頭が痛くなった。

じゃあ、趣味で残虐な殺人を描く小説を書いてる人の勤務先がわかったとして、その勤務先企業に「こんなのを書いてるヤツは人格に問題があるから解雇すべき」とかメールするのか。児童ポルノ漫画だったら、どうなんだ。公権力でなく一般市民なら圧力をかけて表現を潰していいのだとしたら、表現の自由って何なの?

とはいえ、「創作でもアウト」は今のところ少数派。だから逆に、創作だとすると既に生まれてしまった怒りの大きさと釣り合わない。やり場のない感情の処理はコストばかりかかって見返りがない。「創作ではなく事実」なら、感情をぶつける対象が復活する。その方が、都合がいい。この「都合」が、無意識を揺り動かし、自然で素朴な感情の発露として、自分に「ありえない」といわせてしまう。

証明しようのないことを証明しろと迫られて閉口した経験のある人、少なくないと思う。「悪魔の証明」という言葉を知っている人も、結構いると思う。もし今、自然な感情に従うなら、過去の自分が流した悔し涙は、今日の自分に裏切られる。気軽に「嘘だ」とか「隠蔽だ」とか公言することを、あなた方ですら自制できないなら、希望なんてどこにもない。

2.

これまた「ありえない」という反応がいくつも出ている話題。30年以上生きてきて、この程度のことを「ありえない」と断言できる人の方が「どうかしている」と私は感じる。

「偉い人」の倫理的な指示をエヘラエヘラと聞き流して、「客先に出るものじゃなし、裏方の遊び心をどうしてわからないのかねぇ」とか嘯く人って、少数派だけど実在する。操作ミスで客先に出ないはずのものが出ちゃったから問題になったわけだけど、「きわめて低い可能性については考えない」ことはままある。

「いい加減にしろ」って怒られても、上司は怒ることしかできないと、直感的に理解している。配置換えすら難しい。代わりの人を探して、また仕事の手順を教えて……といったコストを考えたら、よほどのことがない限りは、「困った人だけど我慢する方がマシ」なことが多いからだ。

というか、人を探して教育するコストを無視できるなら、私だってもっと優秀な誰かと交換されていいはず。現在の私と同じだけの給料で、私の2倍か3倍の成果を出す人材は、日本のどこかにいるだろうと思う。いつまで経ってもそうならないのは、やはりそうした人材を見出すコストの問題を解決できないからだ。

ともあれ、人の話を疑うことと、「嘘だ」と言い放つことの間には、線を引くべきだ。名誉毀損で訴えられる可能性はまずないとしても、根拠薄弱な罵言を許容するなら、自分だってロクな根拠もなしに嘘つき呼ばわりされることになる。多様な現実を、「ふつうはこうだよね」が塗り潰していくことになる。

「ふつう」の人は、周囲を苛立たせるデメリットがお遊びにこだわりたい自分の気持ちと釣り合わないと思うから、あるいは「万が一」への不安が勝つから、もしくは「代わりなんかいくらでもいる」みたいな脅しがコストの概念を欠いていることに気付いていないから、訂正を指示されたら従うのでしょう。

でも、「自分はそうだ」から、「誰もがそうだ」と飛躍したら世界を捉え損なう。それなりの年数を生きていれば、「絶対にこうだ」と思ったことすら外れる、という経験を積み重ねているはず。そして自分の特異な体験が「ありえない」と断じられる悲しさも体感しているはず。なのに、どうして。

世界が、人間が、自分の共感できる範囲に収まる画一的で単純なものであってほしい、という願いは強く、それゆえ「見ても見えない」「聞いても聞こえない」のか?

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