趣味Web 小説 2011-08-29

自由と法規制の間

1.

法は人々の価値観から生まれるわけで、法に触れるまでは完全に自由だ、なんてことはない。「ただ批判する人もいるだけ」とはいえなくて、やっぱり言論には力がある。「言葉で批判されているだけだから、あなたの自由は少しも抑圧されていない」というのは、客観的にはどうあれ、主観的事実とはいえない。

そうではないとすれば、現代アートも美味しんぼコラも片岡Kさんの本も状況は同じ。どれも権利者に訴えられたわけじゃないから、法的な問題にはなっていない。でも、違う。同じじゃない。その違いが、現実にカオスラウンジの活動の障害となっているわけだ。片岡Kさんは……Amazonレビューが荒れた程度でとくに困ってなさそうな感じだけど。

大学の講師が講義中の出来事をブログに書いた件だって、第三者が懸念を表明しただけで、当人が怒っていて、何か法的措置を検討しているわけじゃない。それでも、批判は現実に影響しているように見える。

『オレ的ゲーム速報@刃』や『はちま起稿』が文脈を無視した情報の切り取りから生まれた誤解を拡散していることも、「単なる言論・表現だから自由」といって済む話かというと、やはりそうではない。「スルーすればいい」というのは第三者の意見で、当事者は「馬鹿げた誤解」や「くだらない揚げ足取り」に傷付く。

2.

JINさんのニコニコ生放送を視聴してみると、素人が自分の狭い観察範囲で見聞きした話を再放送しているだけなので、もともと信頼性のない情報なのだと。だから、仮にそれを信じる人がいても、信じる方がおかしいんだ、と。同じ理屈はかつて悪マニの件でも聞いた

現に人が傷付いているのに、誰も結果に責任を取らず、反省もしないなんてことが許されるか。悪マニのときは、「悪徳企業」とは「違法行為をしている企業」という意味ではないので「悪徳企業といっても名誉毀損にならない」なんて主張もあって、仰天したものだった。総会後の飲み会に参加してみたら、支持者の方々は、素朴に「悪いものを悪いといって何が悪い」という考えだったので、私は言葉を失った。

「刑事罰に値するか?」というところに線を引くならともかく、「真実性の不明確な自称被害者の証言だけを根拠に特定の企業を悪徳と決め付けるのは悪徳企業撲滅のための正しいステップだ」と心底から思い、それが絶対に守るべきネットの自由だ、表現と言論の自由だ、ということなのだった。「自分が誤解をしたのは、誤解を招いた方に原因がある。私に反省すべき点はないから訂正も謝罪もしない」と同様の主張だ。

ウェディング社問題から7年経ったが、状況は少しも変わっていないように思える。相手が自分より強靭だと見るや、途端に無責任になる。集団の言論が帯びる暴力性を、自由の問題と結びつけて反省しない。法的な規制はともかく、自主的な規制にすら原理主義的に反発する。

3.補足

私個人の価値観においては、教師が学生の不愉快な言動について書くのは「あり」。「現代アート」がダメなら美味しんぼコラもダメ。『刃』や『はちま』が意図的に「誤解」を拡散していると決め付ける根拠は十分でなく、批判者が挙げている程度の証拠で問題の記事群をストレートに規制するのは弊害が大きい(ので原田ウイルス事件のように著作権侵害で潰すのが穏当/権利者には「狙い打ち」が許されると思う)。

以上を踏まえて、さらにこう考える。講師が講義中の生徒の言動についてブログ等に書くことを嫌だと思う人への配慮はすべき。例えば、講義の最初に「小レポートの内容は授業中、ブログ、著書で公開される場合がある」と宣言する際、その理由をていねいに説明する。その上で、「どうしても嫌だ、という場合は、今日の小レポートの末尾に書いてください。成績には影響しません」と言い添える、など。

逆に批判する側も、「信じられない」「許せない」だけで事足れりとせず、様々な背景を持つ人が一堂に会し意見を出し合う意義、授業に参加するとはどういうことか、レポートとは何か、といったことについて、対立意見の持ち主が何をいっているかについて、同意までは求めないが、理解をしようとしてほしい。

自分は正しいので、何も譲る必要はないんだ、という発想だと、法律しか自由を縛るものがないので、「あれもこれも法で規制するしかない」という風になっていってしまう。

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