「馬鹿」という以上の意味を持たない言葉がどんどん作られていくのは、攻撃対象を限定することにメリットがあるから。
まず見逃せないのが、自分を批判対象と切り離す効果だろう。
「ゆとり」「老害」「スイーツ(笑)」など、老若男女といった属性で区分した侮蔑語には、対象を少数派にする効果がある。「ゆとり」とそれ以外なら、それ以外の方が多数派になる。これは「老害」も「スイーツ(笑)」も同様だ。「ゆとり」が具体的にどう馬鹿なのかを問題にすると、多方面に批判が刺さって叩きの構図が成立せず、面白くない。だから属性で批判対象を区分し、その他大勢と切り離すわけだ。
多くの人が自らを批判対象と切断して語りたいと願う限り、この手の言葉は必要とされ続ける。
そもそも分類用のラベルとして必要とされていた言葉も多い。「割れ厨」「購入厨」とか、ゲームハード方面の「GK」「痴漢」「妊娠」などがそうだ。いずれも名詞1語での代替表現がない。
「**シンパ」「**陣営」「**ファン」といった言葉は、万能のようで案外しっくりこないケースが多い。シンパといったら反体制分子っぽい。個人を陣営というのも難がある。ファンなら掛け持ちが可能で、排他性がない。「GK」「出川」「痴漢」「妊娠」といった表現は、日本語の隙間需要に対応して生まれた。
分類ラベルとしての需要が大きい言葉は、「分類+意味付け」のうち、「分類」の方が第一義となっていく。「GKにもバカとそうでないのがいる」とか、株価などを見て「現実はGK」、モンハンの新作が3DSで出るという発表に「カプコンは妊娠」などという用例はその表れ。
「割れ厨」「購入厨」には当てはまらないが、「GK」などについては、直截な表現を忌避する感覚にも合致したのだと思う。ゲハ民にも「内輪で楽しんでいるだけなのでそっとしておいてください」的な人々がいて、「ファミレスでゲハ民がGKとか妊娠とかいって盛り上がっていた」みたいな話題に「隠語を表で口にするな!」とマジ切れする。検索避け文化と心情面で相通じる要素があって、分類語の再発明を厭わない。
「情弱」「情強」は、自分を切断して他者を一方的に攻撃したい場合には使えない言葉。原発事故に対する「安全厨」と「危険厨」は、お互いを「情弱」と罵り合い、自らを「情強」と位置づけている。ただし自尊表現は「痛い」とされるので、実際に「情強」という言葉が使われるのは、「常勝ν速」「敗北を知りたい」と同類の自嘲ネタが多いと思う。
「情弱」「情強」という言葉で自分を批判対象と切り離せないのは、何をもって「情弱」「情強」というかについて、コンセンサスがないからだ。お互いが「情弱」と罵り合うことが可能なのは、そのため。
それでも、「バカ」ではなく「情弱」といえば、論点が絞込まれる。「バカ」では全否定になるが、「情弱」といえば、相手の感情や、論理展開能力への攻撃にはならない。「あなたと私の意見が異なるのは、前提知識に差があるからです」というメッセージになる。同時に、知識(=世界認識)さえ共有できれば、感情の問題も解決する(=私の現在の気持ちに共感するようになる)はずだ、という認識を示してもいる。
「バカ」では大雑把過ぎる。論理破綻を指摘する「支離滅裂」という言葉と同様、知識(と知識を獲得する能力)の問題を指摘する「情弱」という言葉だって、あれば便利なのはわかる。しかもたった2文字の名詞1語だ。使い勝手がよい。「情弱」も含めて、tt_clownさんが「馬鹿」と言う意味だけが残った
という言葉の多くは、実際には、まだそこまではいっていない。
「GK」「痴漢」「妊娠」というラベルは、コンソールゲームのプラットホームの好みが排他的であることを前提としている。そのため「面白いゲームソフトのファンであって、特定のハードに執着も思い入れもない」という人は、どれにも当てはまらない。「だから分類として不完全だ」という主張があるが、私には異論がある。
小学生の頃、メガドライブのセガ派と、スーパーファミコンの任天堂派の言い争いがあった。やりたいゲームがあって各々のハードを買ってもらったんだから、それで十分じゃないか、というのが多数派の感覚だったろうが、「自分が買ってもらったハードの方が優れていると、他人にも認めさせなければ気が済まない」人がクラスに数人いて、声を張り上げたわけだ。
彼らにしてみれば、穏健派は議論の土俵に乗ってこないのだから、どうでもいい。いないも同然だ。いない者には、分類ラベルを貼る必要もない。
私が思うに、少数の人々が一生懸命にバトルしているところへやってきて、「何を熱くなっているのかと思ったら、なーんだ、こんなことか。くだらない」と吐き捨てて去っていく一般人は、醜悪である。その醜悪さを認識した上で、「それでも冷や水を浴びせるのは正しい」と信じて水を掛けているなら許せるが、多数派根性で少数派の趣味嗜好を侮蔑しているのと見分けが付かない人も散見され、不愉快だ。
自分の直感だけで、安直にゲハの争いを「醜い」と評するなら、個々人のやっていることに差はない。自分が多数派の側にいて、「常識」により近い感覚を持っているから、「醜い」という言葉に頷く人が少し多いだけに過ぎない。でも真の多数派は、ゲハのコップの中の戦争になど関心を向けないよ。