注:以下の記事中で「DQNネーム」と「キラキラネーム」は同義です。
これがもし本当だとしたら、差別であり問題。もし今後、「当人は公平に本人の能力だけを評価したつもりであっても、キラキラネームの応募者に対して(平均すると)実力より低い評価を与える」ことが実証されたなれば、いずれ「採用の過程では履歴書に本名を記載しない」というガイドラインが定められるのかも。
「当落線上の争いにおいて名前で損をする」くらいであれば、統計上は差別が認められても、個別の事例について差別を認定することは不可能だ。キラキラネームの線引きも難しい。微妙な領域を突き詰めても、あまり成果は見込めない。だから、百歩譲って当落線上で損をするまでは、仕方ないとしようか。しかし、キラキラネームの人を端っから色眼鏡で見るのはNGとすべき。
リンク先などを見ると、キラキラネームの人の能力を頭ごなしに「低い」と決め付ける言説が横行していて不愉快きわまりない。統計的に差が出る可能性は否定しないが、個人差の方が大きいのは明らかではないか。「そんなことはわかっているよ」という人もいるのかもしれないが、わかっているなら差別的な言動は慎むべき。差別言論が誰に咎められることもなく流通している社会で、人がどれだけ傷つくか、よく考えてほしい。
統計的に、身長と出世には弱い相関があることが知られている。背が高い方が出世しやすい。だが知能と身長には相関がない。また、管理職に高身長の物理的優位点が役立つ理由も見出されていない。結局、高身長が周囲の人々に与える好印象が、出世の原因だといわれている。他に有力な仮説がないらしい。
では、多くの調査が示した、統計的に有意な白人と黒人の学力差を、どう考えるか。この学力差は、先天的な能力差を証明しない。家庭や学校、暮らす街などについては条件を揃えることができても、社会に蔓延する差別意識の影響までは取り除けないからだ。「黒人は学力が低い」という偏見は黒人の意欲を殺ぎ、個人差は大きいものの、統計に現れる規模で差別の自己実現が起きてしまう。
PISAの学力テストの結果を見ると、学力トップクラスのフィンランドでは数学の成績に男女差がない。ところが、他の参加国では軒並み男子の方が好成績だ。しかしフィンランドの女子には負けている。フィンランドの人々が先天的に特殊だと考える根拠はない。とすると、多くの国において、「女の子は数学が苦手」という決め付けが自己実現されていることが予想される。
現代の日本で、小中学生の親や、先生たちが、「女の子は数学ができなくてもいい」と言い聞かせているだろうか。基本的に、そのようなことはないはずだ、と思う(いつも例外はある)。それなのに、学力テストの結果には明白な男女差が生じてしまっている。
無根拠な差別を放置すると、いずれ差別は自己実現し、差別は「単なる事実」として流布されるようになる。空気のように蔓延し、差別と認識されることすらない言説こそ、恐ろしいのではあるまいか。
「キラキラネームの人は親に恵まれなかったので能力が低いに違いない」という偏見の蔓延を放置すれば、人々の差別が自己実現し、キラキラネームを付けられた子どもたちが発達を阻害される可能性がある。「名前で能力を決め付けるな」という素朴な主張を、何度でも繰り返さなくてはならない。
昨日、「Facebookの同級生はみんな子供にDQNネームを付けている」と書きましたけど、念のために注釈しておくと、僕の出身校はDQN校ではありません。
いわゆる進学校で知られ、ヤンキー人口は限りなくゼロに近く、大学進学率は限りなく100に近いような、そんな環境でした。で、みんな普通の顔していいとこ就職したり医者になったりして、ちゃんと結婚して真っ当な家庭を築こうとしているんだけど、子供に付ける名前だけがおかしい!
宮本さんの問題意識がよくわからない。いま注目すべきは、キラキラネーム差別が薄弱な根拠すら失ったという現実ではないでしょうか。
難読名の不都合は私も実感しているところですし、名前で個性を追求してコミュニケーションコストを増やす馬鹿らしさを指摘するのは、賛成です。命名文化の急激な変化への憂慮にも異論はありません。しかし、「キラキラネームだと色眼鏡で見られるよ」的な指摘は、偏見を助長する弊害が大きい。私は賛成できません。
もっとも、社会性のある提言ではなくて、処世術を説くことが当該記事の狙いなのであれば、理解できます。少数派か多数派かはともかく、キラキラネームを色眼鏡で見る人々が存在するのは事実ですし、私たちが片手間に頑張ったって、この手の偏見を駆逐できる見込みもないわけですから……。