「事実だとすれば問題」という言い方ですら批判する人がいて、それはそれで健全なことだと思うのだけれど、現実には、「事実であろうとなかろうと問題」というのが一大勢力になっている。
彼らは薄弱な根拠で他者を罵倒し、それを全く反省せずに、「文句があるなら俺を納得させてみろ」と開き直る。が、端っから納得するつもりなんかないのである。何の留保もなしに人を公然と非難するなら、非難する側が根拠を挙げるべきなのに、相手が何をいっても「信じられない」と斬り捨てる。
「架空の罵倒面接」問題では、最後まで「架空ではなかったはず」と決め付けて過剰に名誉を毀損する発言を繰り返す人が何人もいた。自分が「これは本物だ」と感じたことが、その唯一の根拠である。
「架空の罵倒面接」そのものを批判するのはいい。心の中で「架空ではなかったのでは?」疑い続けるのもいい。追跡調査を行うジャーナリストを支援・応援するのも、何ら問題ない。だが、憶測で名誉を毀損する発言をすべきでない。とはいえ、そうした発言をゼロにするのは無理がある。私だって無理だ。また、今すぐ法的に取り締まるべき水準でもないだろう。それでも、社会的な抑制は必要だと思う。
「明確な根拠なく名誉を傷つけておきながら、自分は何も悪くないと開き直るのはひどい」という声がもっとたくさん出てくる社会、行動の徹底はできないまでも「それはその通りなので、発言を抑制しないといけないな」と多くの人が思う社会になれば、悲しみの総量は現在より小さくなると思う。