趣味Web 小説 2011-10-18

memo:内心の自由と表現の自由

1.

1年前の話題。

記事の中で、ウェブの一部で著名な方々が立て続けにFacebookを賞賛する記事を書いたのを見てステルスマーケティング臭がプンプンと放言した人の事例が紹介されている。

この話題に限らないが、内心の自由と発言の自由をゴッチャにしている人がずいぶん多いように感じる。あと、企業や政治家や有名人やTwitterでフォロワーが多い人が相手だと、簡単にリミッターを緩めてしまうという人。……他人事のように書いたが、もちろん私にもそういう面はあって、恥ずかしく思っている。

とはいえ、よくないことであっても、「全面的に禁止」「法的に規制」となると、それもあまりに息苦しい。硬直的な規制は弊害も大きい。だから、倫理・道徳による自制が望ましいと思う。

道徳を持ち出すと「全員の口をふさぐことはできないので意味がない」みたいな反論をする人が出てくる。そんな理屈が成り立つなら、殺人罪があって警察が頑張っても殺人事件はゼロにならないから無意味という話にならないか。私は、「0でなければ0.1でも0.01でも同じ」という五十歩百歩思想には与しない。

補記:

この1年、Facebookは日本でも急伸した。実名主義のFacebookが人気を集めるのは難しいと思っていたので、驚いたな。ちなみに私は2008年5月に登録したのだけれど、今も全く活用していない。mixiもそうなんだけど、投稿したコンテンツの再利用が難しそうなサービスは使う気になれない。

2.

Twitterでの烏賀陽さんの発言と態度はよくないと思う。思うけど、Togetterのコメント欄などに見られる、その烏賀陽さんを批判する多く人々の言葉の選び方にも、私は全く同じ不快感を覚えます。そして、彼らの批判している話題の内容が内容だけに、烏賀陽さんよりむしろ批判者の方に疑問を感じます。

「烏賀陽さんが相手なら、これくらいの言い方をしていいのだ」という考え方に、私は賛成しない。

この記事および、記事中に転載されている文章は、烏賀陽さんの態度ではなく、主張の部分に反駁するもの。だから自己矛盾には陥っていないが、やはり私は「言葉はもっと選んでほしい」と思う。

他人の文章を見ると、そういうことが気になる。自分の文章だと気にならない。だから、意識して取り組まなければ、こうした状況は改善できない。自制の難しさは理解しているつもり。「お互い、頑張っていきましょう」といいたい。

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